苦しんでいる人を見ると、正義感の強い人が多い。
あれはこうでなければならないし、それはもちろんこうであらねばならない。
正しいことと、まちがっていることの区別がはっきりあって、それを基準にしてものごとを見ている。
やまんばの母を見ていると、彼女は美意識が高い。
あれはこうでなければならないし、それはもちろん、そうであらねばならない。
すると、こうであらねばならないのに、そうなってない現実にいらだちを感じている。
正義感の強い人や、美意識の高い人には、苦悩が多い。
こうであらねばならない理由はどこからきたのか。
お上だったり、自分の母親だったり、ばあちゃんだったり、近所のオヤジだったり、テレビだったり、ラジオだったり、どこかで読んだ本だったり、雑誌の特集だったりする。
と、いうことは、自分から勝手にうまれでた「こうであらねばならない」ではない。
ということは、誰かのアイディアなのだ。
それをそのまま受け入れて(なぜか初めて聞く項目には何の疑問も抱かず、そのままインプットするようだ)、それを基準にものごとを「判断」する。
そうすると、それは一つの物差しをもつことになる。
私たちは、ニンゲンとしてこうであらねばならないという物差しを、だいたい中学生ごろまでに学ぶ。
この物差し、一度もつと、とことん使う。
「それ、ちがう物差しだよ」と友だちに言われても、
「やだ!絶対この物差しが正しい」
といって聞かない。
「なんで?」と聞くと、
「だって、お母さんにそういわれたんだもん!」
という。
私たちにとって、この「お母さん」がくれる物差しはとことん大事なのだ。
お母さんが法律なのだ。
お母さんが、宇宙のルールなのだ!
人によって、それはお父さんだったり、となりのオヤジだったりするが。
まあそれはともかく。
その物差し、不思議なことに、気がつかなければ、棺おけの中にまで持っていく。
人によってびみょ~に物差しのサイズがちがうので、夫婦の間では熾烈な戦いとなる。お互いがお互いの物差しを持って、
「あたしの物差しの方が正しい!」
「いーんや。おれの物差しの方が正しい!」
といって、きかないのだ。
こーやって、じじばばになるまで争うから、熟年離婚になったりする。
これって、子供のときとほとんど変わらない。
ではどっちの物差しが正しいのか。
正しい、まちがっているという答えを求めても日が暮れる。そうやって人類は戦いまくってきたのだ。
人はだれかからもらった物差しをいっぱい持っている。それは確かにたのしい。
物差しがあれば、お前のちんちんは短いだの、オレのは長いだのと比べて優越感にもひたることができる。
逆に、お前の方が長いじゃないか。。。と劣等感にひたることもできる。
もし基準がなかったら、
「おれのおちんちん。で、おまえのおちんちん」
で終わってしまう。つまらないじゃないか。
測る、という概念を持ったところから、
「わーい、ちっこーい!」
「なっ、なんだとおーっ!」
って、追いかけっこもできるのだ。
物差しを持つとたのしい。だけどくるしい。
その物差しが、絶対的に正しいと大勢から「証明された」物差しであればあるほど、それで測りまくると、この世はちがうサイズだらけだ。
くるしいにきまっている。
いつのまにか、その物差しと自分が自己同一化している。まるでその物差しは、自分であることの証明にでもなったかのよう。その物差しがなければ自分がいなくなるかのように、使いまくる。
カラダがぜんぶ物差しお化けになると、目に見えるものをはかり、比べ、判断し、断言する。
心は、だめだだめだでいっぱいになる。
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