2013年6月9日日曜日

心のダンシャリ



こないだコストコにいってきた。
初めて入ったときは、NYを思い出すような匂いが立ちこめていたし、あの懐かしいホットドッグもバカ安で、ワクワクした。
でも2度目にいったとき「もう来ないな〜」とおもったので解約した。

ウオシュレットが動かなくなった。
使っているときは、なんてすごい機械なんだ!って感動して、これなしじゃ生きていけないくらいになった。だけど壊れてうんともすんとも動かなくなった後、べつになくてもへーきだった。

これがないと駄目!的なものが、べつになくてもだいじょぶじゃんってな日々である。石けんなし生活だって、じぇんじぇんなくってへーきだし。

ところが、心の中は、いらないもんがごろごろしっぱなしである。
「あんた、部屋ん中ぐちゃぐちゃじゃないの。いーかげんかたづけなさい!」
とは言われても、
「あんた、心ん中ぐちゃぐちゃじゃないの。いーかげんかたづけなさい!」
とは言ってくれないからである。

しかしやまんばはそーじをはじめたのである。
題して、ダンシャリ心バージョン~~~っ!

何を捨てるって?

ほら、よく心ん中で口にしない?
「あたしってだめだ。」
「ああ、あたしって、まだまだだ。」
「なにやってんだろ、あたし」
なんてゆーよーなことば。

自分を否定することば。
これはじつはエネルギーを多大に消耗している。

否定的なことばを発した時、心に何かかすかにでも、ズシン、という重みを感じないだろうか。カラダが重くなるような、心が沈むような。
その時そこにエネルギーが注がれている。

人の心は複雑に入り乱れていて、その否定的なことばを発した時は、過去の何かしらの傷に触った瞬間でもあるようだ。その傷にふたをするようにエネルギーを注ぎ続けている。

私たちには過去にたくさんの心の傷を持ち、それに当て布をするようにエネルギーを注ぎ続けているらしい。だからただじっとしていても、そこに使うエネルギーは消耗している。それに気がつくには、自分が自分に否定することばを見つけていくことが早いようだ。

だから部屋にゴミが満杯だと、いつの間にかリビングがせま~くなっているように、心の中もゴミに占領されて、それに家賃とられているようなもんだ。
家賃とられるならまだしも、エネルギーとられ続けて、どんどん老けていく。

一度否定をやめてみると面白いことがわかる。
心が軽くなる。

なんでもいいんだ。
例えば、おなかがポッコリ出ているとする(現実、出てるんだけど)。
すると、「あ、おなか出てちゃだめだ」って瞬時におもう。
おもわなくても、そこを触っているだけで、心が否定していることに気づけば、もっといい。

そのおもっている自分に気がつくんだ。
今、おなか出ていることを否定しているな、と。
そして「どっちでもいーじゃん」ってひとこと言う。
そのとき、カラダか心がちょこっと軽くなったら、それでオッケー。

このとき、「あ、否定している、否定しちゃいけないんだ」とおもってはいけない。だって、またそれは否定の否定なのだから、おなじことになってしまう。
否定も肯定もしない。本当はどっちでもいいことなのだ。
どっちかにしなきゃいけないとおもっているのは、そう思い込まされているだけなのだ。それが私たちを縛り付け、そこにエネルギーを使い果たしてしまっているのだ。

そうやって自分を否定していることを、ひとつづつ、表に現していくんだ。
だって、心の部屋の隅っこには、いっぱいクソみたいなどーでもいいことの自分への否定が、いーーーーっぱいたまってるんだもの。
それは表にだしてこないと消えない。見て見ぬ振りしたって、同じようなことが起きれば、そのホコリはがばって起き上がって「出動開始!」って大騒ぎするんだから。

『自分否定』がお得だった期間はもう過ぎたのだ。賞味期限切れ。ひっぱりだしてきて食ってもうまくない。
そういうものは、どんどん表にだしてあきらかにしていこう。すると日を浴びて「ぎゃ〜〜っ!」と消えていくドラキュラのように、こっぱみじんになる。
そうやって心の部屋はきれいにそーじされていくんだ。

心のダンシャリ、どおよ。



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