やまんばは仕事中、しょっちゅう席を立つ。
コーヒー入れたり、パンを焼いたり、ネットを見たり、山をみてぼーっとしたり。
なんでこんなことするんだろ。
どうしてじっと机に向かってられないのか?
くるしいのだ。
くるしくて、机に向かっていられないのだ。
なぜ?
ふと、ダメだしをする自分に気がついた。
エンピツでスケッチしながら、心が後から後からダメだしをしている。
一つ線を描くごとに、
「それじゃだめだ」
「ああ、その線もだめだ」
「なんてへたくそなんだ」
「その程度のアイディアしかでないのか」
「それじゃきっと決まらない」
「そのアイディアもだめだ」
「いったい何年やっているのだ?」
「いいかげんにしろ!」
「そんなことしていると、仕事干されるぞ!」
やまんばは自分が仕事している最中に、こんな言葉をえんえんと吐き続けていることに気がついた。。。
こっ、、、、これは、くるしいに決まっている!!!
自分がする行為を全て帳消しにしているのだ。落ち着いて座ってられる訳がない。
なんでこんなことしているのだ?なぜダメだしをだすのだ?
いたらない部分を指摘することで、より良くなる。
そう教わって来た。
悪い部分を改善することが、正しい道だと教わって来た。
そうやって50数年生きてきた。
だからちょっとはマシなニンゲンにはなっただろう。
だけど、こんなにくるしくていいのだろうか。人生はくるしいもんである。それがいい人である態度だ。
ほんとにそうなの?
もしもダメだしをやめたら、とんでもないニンゲンに戻ってしまうの?
78歳の母を見る。
彼女の心の中は、自分へのダメだしで一杯だ。
「この足がだめなのよ。この足が。。」
「ああ、歩けない。。」
そうやってダメだしをだし続けていることが、自分を切磋琢磨してより上に上がらせられると信じている。
たぶん、すくなくとも日本人はそう信じているはずだ。
しかしじっさいは、それを言い続けることによって、彼女はより歩けなくなったようにみえる。一番近くでその姿を見てきて、そのダメだしは本当に効果100%なんだろうかと、疑問におもっている。
しかし自分も同じことをやっていることに気がつき、愕然とする。
これは「年いったき。。。」とまったく同じことなのではないか。
自分にだめだだめだと言い続けることは、より良くなるということよりも、その言った通りになるのではないのか。
つまり、ダメな人間に。。。。
そのことばに耳を傾けるのをやめてみた。
ダメだしをする自分のことばを無視してみた。
「デッサンがへたくそ?あっそう」
「そのアイディアがだめ?べつにいーんでないの?」
仕事が進んだ。。。。
机に向かえるようになっている。
くるしくなって席を立つ自分がいなくなっていた。
なんという開放感なのだ。
なんで今まで気がつかなかったんだろう。
ダメだしは、自分に手かせ足かせをはめていただけだったのかもしれない。
ダメだしをしない自分の方が、はるかに自分の現実が引けて見えている。
淡々と仕事をみることができる。
それは感情を伴わないからのようだ。
それは感情を伴わないからのようだ。
でもダメだしすると、自分でだした瞬間から感情的になる。
その感情的な視点が、自分への洞察をさまたげる。
心は、わあわあ、きゃあきゃあ、騒ぎだす。
ダメだしは、自分を奮起させてくれる道具でもあるが、いっぽうで、自分をつぶしてしまう道具でもある。
道具はうまく使いこなしたいもんだ。
心は、わあわあ、きゃあきゃあ、騒ぎだす。
ダメだしは、自分を奮起させてくれる道具でもあるが、いっぽうで、自分をつぶしてしまう道具でもある。
道具はうまく使いこなしたいもんだ。
絵:『カリスマ社長の大失敗』MF新書表紙イラスト
「失敗しない人は挑戦しない人である」
なるほど!
自分のダメだしにつぶされてしまわない人が、この世を渡っていけるのだ!
うちの母親も、同じようなこと言ってる。でも、足痛くなくなったとしても、なんかかんか言うんだろうね。
返信削除そうなのよ〜。
返信削除それが終わったら、つぎこれ、みたいな。
人はどうも、足りないものばっかり探しているような気がするなあ〜。