ポジティブに生きましょう。
前向きに考えましょう。
幸せだーって感じましょう。
とゆープラス思考方法論がある。
ひねくれ者のやまんばは、これは塩を入れ過ぎた味付けに、砂糖を入れてごまかすようなもんだとおもう。もともと塩辛くて食えないところに、さらに甘さが混ざって、ものすごい味になるようなきがする。
そーゆーときは、まず塩をぬかんでどーする。
「ポジティブに生きなきゃ」という発想には、ポジティブじゃない考え方がある。前向きに考えましょうってえのも、前提に後ろ向きな考えがあるはずだ。
もともと後ろに引っ張ろうとするきもちがあるのに、前向きに(つまり反対方向に)引っ張ってみても、運動会の綱引きみたいなもんで、もんのすごーいエネルギーのわりには、ちょいとどっちかに進んで、
「ぱんぱんぱあ~ん!赤組のかちい~!」
ってなるだけじゃん。
どんだけ労力使うよ。
世にいろんな方法論があるのに、いまだに人類があんまり幸せそーじゃない。
方法論にまちがいでもあるのか?
方法論を生み出した人々には、その方法論を導きだすまでのあいだに「心の仕組み」を理解する過程がある。方法論はその途中に生まれたものだろうと思う。
ところが「おれはこれをやって成功したんだから、きみもそれで出来るはず!」と言う。困っている人も何か完璧な方法論がないか?と探しているものだから、
「おお!これは!」と飛びつくのだ。
んで、日々綱引きで疲れる(笑)。
だけど肝心なのは、その方法論ではなく、それを見つけた人が「そこに行き着くまで」なんじゃないだろうか。
塩辛い食いもんは、砂糖でごまかすんじゃなくて、塩をぬく。
塩を抜いたら、いくらでも味付けが可能になる。いくらでも幸せになる。いくらでも前向きになる。
いや、そもそも不幸なおもいがあるから幸せを求めるのだ。不幸なおもいがなくなれば、幸せを求めることもしなくなる。後ろ向きなおもいがなくなれば、前向きになどという発想もなくなる。ネガティブな考えがなくなれば、ポジティブな考えも求めなくなる。
なぜ心はなぜネガティブになったり、不幸になったり、うしろむきになるのか。という心の仕組みを理解することじゃないだろうか。
なぜ心はつねになにかをもとめる?なぜそれが必要なのだ?
必要なものが存在すると、それが「ない」というおもいも出てくる。
あって当たり前だというアイディアはどこから来たのだ?生まれた時からもっていたのか?ほんとか?誰かにそれが必要だと言われたのではなかったか?
世の中はその必要なモノだらけで、気がつくと自分にはそれがないモノだらけで、だから不幸で、後ろ向きで、ネガティブなんじゃないのか。
複雑にからみあって、がんがんに固むすびになってしまったひもを、少しずつほどいていけば風通しもよくなる。いつのまにか方法論を求める必要もなくなる。誰かの方法論をもらってこなくてもよくなる。
ネガティブもポジティブもなくなる。
プラス思考もマイナス思考もなくなる。
運動会の綱引きは出番がなくなる。
それをヌーソロジーでは、対化の等化というらしい。(ほんまにや?)
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