2012年5月14日月曜日
過去に死ぬ
過去に死ねたらどんなにいーだろーなー。
過去はいい思い出もあるけど、頭ん中でぐるぐるすることは、たいていやなことばっかりなんだもん。
あんときあいつがああ言ったとか、あんとき私があんなことしてしまったとか、すると、ああしなきゃよかったとか、あんなことされるのはもうまっぴらごめんだとか、過去を振り返って、勝手に未来を予測して、今、目の前で起こってもいないことで心配して、ああじゃない、こうじゃないと、心は無意識に騒ぐ。そんなことが、頭の中でひっきりなしにおこなわれているのが、現代人じゃないだろうか。
昔は無心になれとか、心の静けさを保てとか、よく耳にしたが、今、そんな言葉は日常的には聞かれない。いったとしても言葉の上滑りするだけで、じっさい心が静でいられるかっちゅーと、まったく正反対だ。四六時中心は騒いでいる。
それは私らは、「過去」に生きているからなのだ。1時間前のことも、10年前のことも、今さっき起こったことのように後生大事に抱えているのだ。
昔、近所の工事の警備で、ある警備員さんが道路脇に立っていた。
彼は一日中、横に誰がいるわけでもないのに、いつも誰かにむかってずーっとしゃべっていた。頭がおかしいのかなあ?とおもったが、ダンプカーが来ると、ちゃんと誘導している。私が挨拶しても、ちゃんと応える。そしてまた一人になると誰かとしゃべり始める。
フツー、そーゆー人は、頭がおかしい人、としてあつかわれるが、仕事はちゃんとできている。だからこーゆーのは、頭がおかしい人、といえるのだろうか?
でもよく考えたら、私たちも同じように心の中で四六時中しゃべっているではないか。それを口に出すと、そのおじさんのように「妙におかしな人」と見えるだけなのではないか。するとおじさんと私たちのあいだに何が違いがあるかと言うと、「口に出す」のと「口に出さないで心でしゃべっている」の違いしかないのではないか。
するとそれは、KYな人(まわりの空気読まない人。人にどう見られているか気にならない人)ぐらいのレベルでしかないのか?
おじさんは、過去にとらわれている。
過去に起こった気に入らない出来事にぶつくさ文句を言っている。それは自分を正当化するためだ。
思考はそれをただ繰り返すだけで、そこに解決は見つけられない。それはちょうど、二次元の世界にいる人間が、二次元の問題を解決するために二次元にふみどとまって問題を解決しようとするようなもんだ。二次元の問題は、それを外から見る事によって、その全体像が見えてこそ解決の道が開ける。そのためには三次元からそれを観なければいけない。
それと同じように、思考という二次元の方法論(三次元かもしれんが)でもっては、いつまでもその問題は解決されないだろう。出来たとしても、どこかに矛盾を生じているはずだ。そこから全体像は見渡せないからだ。
過去に生きていたら、あいつのことや自分のことが気に入らない。
でも過去に死んだら、あいつがやったことも自分がやったことも問題ではなくなる。今そこにいるその人を、過去のフィルターを通してみることなく、今目の前にいるその人そのものだけと対話できるのだ。自分の過去のフィルターを通して自分を見るということもしなくなる。
すると垂れ流しにされている大量の思考で心のエネルギーを消耗することもなくなる。人はそのときそのときだけを観て、生きるようになる。
するとみんなの心が平穏になっていがみあいが減り、この世は平和になるんだけどなあ〜。
絵:「名刺は99枚しか残さない」MF新書表紙イラスト
名刺ってやたらめったらもっちゃうよねえ。ほんでもって、いっぱいもってるとどっかで「あたしってエライ!」っておもっちゃうけど、よーく考えたら使われている名刺はほんの少ししかない。それを見極めてどう有効に使うかという画期的な本なのだ!
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