2012年3月21日水曜日

無駄なテイコーはやめろ!ってか?

否定する。抵抗する。嫌う。
その対象になるものは、それをすればするほど育っていくようだ。

自分の顔のシミがきらい。そこをなんとかしたい。そーすると、その事が気になって気になってどんどん大きくなる。実際大きくなるのではなくて、心の中にそのシミに対する思いが大きくなるのだ。だからその存在がますますイヤになる。なんとか取り除きたい。ああ〜〜っ、このシミさえなくなれば、わたしはマイナス5才肌になるのに!

ところがその人のスタイルはとっても良かったりする。でもそれを気にする事はない。なぜなら、その人にとって、スタイルはどーでもいーことなのだ。


ウチの母は、足が気になって気になってしかたがない。ああ、この足さえ早く歩けるようになったなら!と考えれば考えるほど、事の問題は大きくなり、彼女の人生の最重要課題となり、四六時中それに集中する。

さて、先日彼女の健康診断があった。
「お医者さんがねえ。あたしの内臓はどっこも悪くないってよ。特に腎臓なんか、すごくいい!普通この年になったら必ずどこかがいたんでいるはずなのに、ナ〜んにもなってない。健康そのものだってえ〜。」
という。
はいはいそーでした。彼女の身体の中身はすごいのだ。内臓の働きはもちろん、骨にいたっては、骨密度40歳代。何一つ悪いところがない。筋肉もいたって普通。
なのに歩けない。先生は首を傾げる。どっこも悪くないよ。なんで歩けないの?


どーかんがえても、彼女の思考になにかがあるようにおもえてならないのだ。
歩くのが遅いのだ!という思考に。これは自分の歩き方を否定し、抵抗し、その葛藤がよりその事を大きく見せているんではないか。そのトピックは彼女の心の中のほとんどを締めている。それは、巨大化した問題意識のためだ。
だがそれとは対照的に、内臓に関しては全く問題がない。

ここでやまんば勝手に妄想論。
これは、彼女が「あたし別に内臓に感心ないもん」と思っているからなんではないか?

大自然は美しいバランスに満ちている。全ての動きが、日々刻々と大きなうねりを持って変化する。その営みは完璧だ。人間の身体もこの大自然と同じものなんではないだろうか。全てが完璧でバランスに満ちている地球の身体。
それを無秩序にしているのは、単に人間の思考なんじゃないか?何度も聞かされる彼女のその極端な現象からおもいはじめた。

彼女は内臓や骨には感心がない。だって、誰にも
「あなた内臓遅いわね」
と言われていないんだから。

否定するところがない。彼女の内臓に関しては、自分の中に葛藤がないのだ。だから大自然である内臓は、美しいバランスをとってひたひたと働き続けているんじゃないだろうか。つまり思考がその内臓に向けられていないのだ。これって。。。


「アタシの内臓は弱いのよ〜」
と思っている人がいるとしよう。常におなかが下らないように気をつけている人がいたとしよう。その人の心もまた、「これ食べたら、おなかこわれるかしら?じゃ、あれたべたらどうなるかしら?」と思い続けているとどうなるだろうか。
または、太る事を気にしている人は「あれ食べたら、またふとっちゃう!」といい、どれ食べるかいつも気にしているとどうなるだろうか。
やっぱりその事だけが大きく心の中で存在を放っているんじゃなかろうか。

否定が起る。その否定するものに抵抗する。それが常に気になっちゃう。気になっちゃうものはでかくなる。でかくなると、ますます抵抗する。
すると完璧に動いているものがバランスを崩す。それは思考が大きく影響をしているとしたら。

これ、何にでも言えるような気がする。
気に入らないヤツがいる。気に入らないからどっかに行って欲しい。どっかに行って欲しいと思えば思うほど、そいつはますますこっちに寄ってくる。お化けが恐い。こわいと思えば思うほど、ますますこわくなる。花粉症になりたくない。なりたくないと思えば思うほど、症状がでかくなる。トンネルビジョンはここでも炸裂する!

全ては葛藤から来ているんではないだろうか。
葛藤は、今あるそのままの状態ではなく、「こうあって欲しい」という願望を含んでいる。ではその願望はどうして来るかと言うと、否定があるからだ。

否定はあらゆる混乱を作り上げていく。葛藤が心にある限り、大自然の流れである身体の働きも、また人間関係も、乱れていくのではないだろうか。
すべては心が作り上げている。その心が混乱を助長しているとしたら。

私たちは本来、あるがままでいいんではないだろうか。ワイドアングルビジョンのように。
そろそろ否定をやめてみるってえのどうだ?
無駄なテイコーは止めろ!ってか?

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