やまんばは、思考があらゆる事に影響を及ぼしているのではないかとおもったのは、母のことからだ。
母は今身体が動かない。家の中で窓際から台所にいくまでも、ふすまにしがみついたり、柱にしがみついたり、椅子にすがりついたりしながら、つたい歩きをしなければいけない。
彼女は私が小さい時から「私は歩けない」といってきた。とはいえ、歩けないのではなく、ゆっくり歩く人だった。ではいつ頃から「ゆっくり歩く人」になったのか。それは、彼女が社会に出て働き出してから、同じ部署の人に、
「あなた、歩くの遅いわねえ」
といわれたときからだった。
つまり、彼女が「歩くのが遅くなった」のは、人から「歩くのが遅い」といわれ、その時から「私は歩くのが遅い人間」というレッテルを自分にはったときからだ。
もしこのとき
「あなた優雅に歩くわねえ」
と言われていたなら、事態は変わっていただろう。「ああ、私は優雅」といって、歩く事にさほどの意識をもたらさなかったのではないか。
ゆっくり歩く事は「いけないこと」ではない。捉え方によっちゃ「優雅」なのだ。だが同じ部署の人に言われた言葉は、「いけないことなのだ」とおもわせてしまった。
言葉は破壊的だ。その言葉が一生彼女の頭についてまわる事になった。
だから、彼女は「私は歩きが遅いから、早く歩かなければいけない」と思い込んだのだ。
「朝、布団の中で目をさますやろ?そしたら、『さあ、ちゃんと歩けるかね』って、自分の足をさするがよ」
彼女が電話の向こうで話す。もう何十年になるんだろうか。彼女が常に足を動かす事を意識し続けているのは。この足が、この歩きがと、ある時は足を怒りながら、ある時は叱咤激励しながら、そしてある時は「ありがとうねえ」となだめながらつきあってきたのだ。
その結果はどうだ?
果たして彼女は早く歩けるようになっただろうか。
彼女は今77才。つたい歩きをしなければいけない「年齢」なのだろうか。いや、ここ高尾山には、お年寄りが多く山に登りにくる。彼女より年上で、高尾山の頂上どころか、もっと遠くまで歩いていく。
「努力する人」の心理は、その後ろに「努力しなければひどい事になる」という恐れをはらんでいる。恐れは人を硬直させる。「あんな風にならない」ために、必死で努力する。足を叩き、足をもみ、足をなで、足を練習させ、足に話しかける。彼女の何十年の「努力」は報われたのか。
むしろその「努力」が彼女の身体をより硬直させ、重たくし、ますます歩けないように持っていったように見えるのは、私の勘違いなのであろうか。その「努力」なくしては、今頃とんでもない状態に入っていたんだろうか。
やまんばには、どうしてもそうはおもえないのだ。
勿論、全員ではないにしても、ほめられ続けて育った人間と、けなされ続けた人間の育ちを想像すると、暗示効果はありそうに思えますね・・。
返信削除「遅いね」行った人も全く意識してなかったけれど、暗示を与えちゃったんでしょうか・・。
もしそうなら催眠療法を試すのも効果があるのかな??
「遅いね」と言われて、母のように反応する人もいれば、べつに反応しない人もいます。
返信削除きっと彼女の中で、その言葉はおもいっきりプライドを傷つけたんでしょうね。
言った人が悪いわけではなく、その反応の方に何かがあるんじゃないかと思ったわけです。