記憶。
私たちが記憶を使うのはいつだろうか。
いつ、と言ったところで過去の事を思い出す。ほら、記憶を使っている。
記憶はいたるところで使われる。朝、お味噌汁作るのも記憶を使うし、朝、服を着る時も記憶を使う。
「えっと、これは後ろでこっちが前。これはセーターで肌の上に直接着るもんじゃない。パンツは頭にかぶるもんではなくて。。」と。
使ってる使ってる。
記憶って便利だなあ。記憶があると家に帰る事も出来るし、パンを作る事も出来る。毒のある植物を食べない事も出来る。記憶って生きるための必須アイテムだな。
でももひとつ別の種類の記憶もある。
誰かに怒られた事。誰かを傷つけた事。嬉しかった記憶もあるし、かなしかった記憶もある。
「あんときあーだった、こーだった」
と、使う。
目の前のパンツをかぶるかどうかの問題ではなくて、目の前にないパンツの事を考える。
「あんときパンツを頭にかぶったから笑われた」とか。
するとそのとき赤面した事や、後悔した事や、かなしかった事や、走ってその場から逃げたかった事なども記憶を使っているときくっついてきたりする。
パンツをはく行為は5秒ぐらいで済むし、パンツをはく行為に「パンツ、パンツ、パンツ。。。」と心でいう事もないが、パンツによって引き起こされた、もうひとつの種類の記憶は、風が吹いたら桶屋が儲かるとか、ワラシベ長者のごとく、どんどん突き進んで巨大な話になる!(さっさとパンツはいて仕事にいきなさい)
どうも記憶には、こういった物質的な種類のものと抽象的な種類のものがあるようだ。それがぐちゃぐちゃに混同されて使われているのが私たちの記憶じゃなかろうか。
抽象的な記憶の方は、あんまりうれしくない。
嬉しい記憶はいいけど、だいたいにおいてかなしかった事や、苦しかった事や、頭に来た事なんかを思い出すために使っているんだもの。そーすると、あんまし心にいい影響は与えん気がする。
だいたいそのつらかった記憶は何の役に立つのだ?それを思い出してはきらいなヤツの事思い出したり、自分のおろかさを見せつけられたりしてバタバタするのがおちなのだ。そんな記憶を使えば使うほど、人生やになっちゃう。
やまんばは、家に帰るのを迷わないための記憶の方を使いたい。
パンツをはく。家に帰る。パンを焼く。おしまい。それ以上でもそれ以下でもない。シンプルな心の中のままでいる。心の中をコトバだらけにしない。
なんておもうのでした。
二度目のコメントです!
返信削除この「記憶」もまた、使い方次第なんですね( ..)φ
いわゆるトラウマってのは至る所で顔を出し、心ばかりか体までをも縛り付ける…
私もTSUKUSHIさんのように、記憶を味方につけ軽やかな毎日を送りたいです!
お匿さん、いらっしゃい〜。
返信削除こらこら、記憶に敵も味方もないんやで。
よーするに、記憶の仕組みを知るってことかな。
あんまりやっかいなもんは、後追いしないってことだな。