夏の間活躍してくれたオクラの木(木みたいになっている)を根っこから切り落とし、畝の間に寝かせた。ここで自然に枯れて土の栄養になってくれるはずだった。あれから二週間。ふと目をやると、畝間に花が。。。
げ。
根元から切り落としたはずのオクラが、畝間に寝たまま、花を咲かせている。よく見ると、そのそばにクキっと首を90度もたげたオクラの実がついているではないか!
え~、いつまで生きてるんだよ~。根っこもないのに。
けなげに実と花をつけているオクラくんに悪くって、しばらくそこを歩けないやまんばであった。
実はもう一個オクラを切り倒さずにほってある畝がある。このまま来年までほっといてみるか。
さて畑と言えば、ある思い出がある。あのシーンで私は自分自身に気づかされた。その役を買って出てくれた友だちにほんとうに感謝する。(無意識にだが)
畑で友だちと二人で草刈りをしていた。
私は彼女に「そこ、草の中にソバが植えてあるから草刈らないでね」とたのんだ。
「うん、わかった」と彼女。
しかし私が他の作業しているあいだに、草と一緒にちょうど実がなったばかりのソバも全部刈ってしまった。
「え~っ、そこソバがあるって言ったじゃない!」
と声を荒げてしまった。
「ごめんなさ~い!」
ちょっとショックだったけど、まあしょうがない。
ところがそれから彼女の行動がおかしくなって来た。もうろうとして心ここにあらずになってしまった。涙目で作業をする手が宙を描いていた。
ありゃ、悪いことしちゃったなあと思った私は
「ごめんね。ちょっと言い過ぎたね。気にしないで。また生えてくるから。ほら、ほかの場所にもあるから」
とフォローを入れた。しかし彼女のその様子はしばらく変わることはなかった。
その時、私ははっとした。
これは私の姿だ!
彼女は今、「私は悪いことした」というおもいでいっぱいになっている。心の中は反省でいっぱいになっている。
「ああ、わたしっていっつもこうなのよ。。そういえばあのときもこうだったし、そのずっと前もそうだった。。。ああ、私って何も変わらない。人に迷惑かけてばかり。。あああ。。。。」という顔をしていた。
彼女はまわりのこともバランスもよく考えて、よく人に気を使ういい子だ。気を使うから反省もいっぱいするのだろう。うんうん、これからは草を刈るとき、よく気をつけておくれ。
。。。き、気をつけてくれるだけでいいんだが。。。
な、なんかようすがおかしい。。。
彼女は自分の反省の渦の中に入っていた。
心は今と同じように前に人に怒られたことを思い出している。
「ああ、わたしって。。。ばか。。。」
そしてそれがいつのまにかそのときの惨めな自分、可哀想な自分へと移っていく。あの時お父様からしかられて雨の中をさまよった可哀想な私、あの時先生から怒られて廊下に立たされた可哀想な私。。。などだろうか。ソバを刈った自分自身の姿を直視するのではなく、自己憐憫に変わっている彼女の姿を見た。
これなのだ。私は彼女と同じことをしている。いくら自分の中に監視人をつけても、ただ監視しているだけで満足してしまっていたのだ。彼女もまた、反省するだけで満足してしまっていた。そしてそこから先は、惨めな自分への愛着。わたしもまたびしびしとムチ打つ監視人とムチ打たれる自分に満足していただけなのだ。そして同じように、小さい時、はだしで家の外に出されたときの、あの惨めさを味わっていたのだ。
ほんとうは、ムチ打った後、どこが悪かったのか自分自身をよく見つめなくてはいけない。やったことを直視していないから、いつまでたっても「いらんことする私」でしかなかった。
つづく。
叱り方って、難しいです。
返信削除怒るのは簡単なんだけどね。
叱るってことは、相手に変って貰いたいから。
だったら、どう言えばいいか。
この相手と、このシチュエーションなら、こう言う。この相手ならああ言う。ってことですよね。
ああ、難しい・・・っとまた、子どもを怒りまくる私であった・・・・
子供を怒ってるぱぱさん見たことないけどなあ。
返信削除子供を思いやるやさしいぱぱさんだよ。
そゆのはこっそりと・・・
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