2011年10月7日金曜日
私は何も知らない
借りたガーデンシュレッダーを返しにいこうと、その重いヤツをおっこらしょっと持ち上げた。瞬間、背中にピキッと何かが走った。
「あ。やっちまった。。。」
そうは思ったがそのままどすんと地面に落とすわけにもいかず、痛いままシュレッダーをかかえたまま階段を5段おりた。
「あ~あ、ぎっくり腰来ちゃったなあ。。。」
腰をさすりさすりおじさんところに返しにいく。そのまま畑に行こうとしたが痛みはどんどん増すばかり。こりゃ、畑まで歩けないと思い、部屋に戻って横になる。トイレに行こうと起き上がって、痛みがもっと増しているのに気がつく。
「やっべえ。。。本格的に来ちまった」
ぎっくり腰は何度もやっている。慣れっこにはなっていたが、ここ何年かぶりだった。あの痛みはやった人でないと分らない。
いちばん最初は、紙を切るためにもっていたえんぴつ型のカッターの向きを変えただけでなった。そのまま机の下に座り込んで全く動けなくなった。そのあとの長患いったら。思い出しただけで背筋が凍る。はあ~、ああなりたくないなあ。。。
近所の針をやっている人のところに電話する。いない。こりゃ、自分で治せってことかあ。。?
やまんばはじっと考えた。
私がぎっくり腰を怖がっているのは、過去にぎっくり腰をやった事を思い出しているのだな。あのときどんな痛みだった、あれからこんなに長患いをした、等々。
と、いうことは、知っているから怖いんかもしれん。その怖さが痛みを増幅しているのかもしれん。ということは、今回私がはじめて体験するぎっくり腰だったらどーなる?
ぎっくり腰というものを、「ぎっくり腰」という名前もしらず、どんな症状になるのかという知識もないとしたら。。。。
そこでやまんばは、歩きながら
「私は何も知らない」といってみた。
つまりこの痛みに関して、何も知らないのだ。この痛みの名前も、これがこの先どうなっていくのかも。
するとほんのちょっとだけ身体が軽くなった。もういっぺん心でいってみる。
「私は何もしらないのだ」
すると痛みが小さくなった。
「私は何も知らない!」
どんどん痛みが小さくなる。
な、なんじゃこりゃ?
やまんばは畑に向かって歩いた。一歩一歩身体を感じながら。
いつの間にか畑についた。あのさっきまで私を苦しめていたぎっくり腰の激痛は消えていた。かすかに腰が痛いのみになった。
あとは身体が自然に調節してくれるのだろう。それにまかせた。
あれから数日。痛みは消えた。いつもの私なら、今頃寝込んでいただろう。
一体何が起ったのか。私はただ、過去に経験した似たようなことをことごとく忘れただけだった。
私たちは何もかも知っているとフんでいる。文明がうんと進んで、うーんと人間は進化したと思っている。しかし知っているのはほんの一部だけなのだ。ぎっくり腰だってどんなメカニズムでなったり治ったりしているのか、本当のところは誰も知らないのではないだろうか。お薬飲んだり治療したりするけど、いろいろやるけど、けっきょくのところ、自然治癒しているだけなのかもしれない。だとしたら、誰も知らないのだ。ウイルスとかDNAとか言うと、なんだか知ってる気になるけど、だれもそのDNAを肉眼で見たこともない。どっかのおえらいセンセが仰せになったから、ご発見されたから、庶民はそれを鵜呑みにしているだけだ。
それにお名前を付けて
「これはこーゆーものですから、こーんなふうに症状が出ます。だからこれからこーんなふうに大変な事になるのでお薬、用意しときましょうね」
といわれたら、誰だって、
「センセが言うんだからまちがいない」
とおもう。
それを鵜呑みにしてそうなるもんだと思うから、そーなるだけのことだったりして。。。単にそれだけの事だったりして。。。
なとどふとどきもののやまんばは思う。
ほんとは私たちは何も知らない。それについて知っていると思うから心配したり、恐怖したりする。
世間は「知っていないといけない」とおもいこまされている。
「アーラ、あなた。そんな事も知らないの?」
なんて白い目で見られたりする。だけどどこまで知っていればケーベツされないのだ?どこまで知ってても、自分でまだ足りないと思ってしまうこの強迫観念。
このさい「私は何も知らない!」といってみよう。
心がなんだか軽くなるでよ。
絵:ハードカバー表紙
まさに、「病は気から!山へは、高尾山口から!」ですね!
返信削除うまいっ!座布団一枚!
返信削除って、なんで山は高尾山なの?
いろいろ事情が・・・。(笑)
返信削除やっとわかったよ。
返信削除病い(やまい)と山(やま)をひっかけてるんだ!
って、なんで高尾山なの?
(もーえーがな)