2011年10月28日金曜日
敵なの?
なんだかね、やまんばは考えちゃうのだ。
3.11があって以降、世の中がぎくしゃくしている感じがするのだ。
それはとてつもないことがいっぺんに起ったからなんだろう。だってこれは、私たちが立っている足下はいつでも揺れて安定しないってことを身をもって知らされたし、文明の頂点みたいな原子力も、あんなにもろいもんだと言う事、ほんでもって、とーってもリスキーなものだという事がバレちゃった。ついでに金融もくずれはじめている。
これは自然にも文明にも頼れないという事を、ドドーンといっぺんに教えてくれちゃったのだ。んで、人々は心が落ち着かないので、「安心、安全」って呪文のように唱えている。不安で不安でたまらないから、ガイガーでいろんなところ測って安心を得ようとする。
するとあっちこっちでホットスポットが見つかっちゃって、しかも福島原発が原因でないものまで発見される。
「え~~~っ、それってどーなの?」
と、不安解消するために測ったのに、安心するどころかますます不安になる。不安の心の置き所をどこへやっていいのかわからないので、東電という敵を作る。敵を作れば、「あいつがわるい!」ということで、心のよりどころができる。やまんばがNYにいた時、911の時のみんなの心理もそうだった。アルカイダがわるい!とみんなで合唱する事で不安な気持ちを他に向ける事ができた。あいつさえ殺せば、不安は解消されるんだと。
だが実際はどうだ?
不安を解消するために他の国に乗り出し、大勢の人々を殺し、フセインを殺し、オサマを殺し、それでテロは解消した?いまだに次の敵を探している。
放射能は敵?原発は敵?東電は敵?
やまんばは、誰も敵でもなければ味方でもないと思う。
「誰かさんがわるい」と、名指しすると、それによって自分の立ち位置が安定する。みんな安定したいから誰かを標的にするだけなのだ。寄らば大樹の陰。敵作りも同じ。本当は誰でもいいのだ。敵にすがって自分を支えているのだ。
原発のデモにでるのも、ガイガーもって測るのも、みんなそれにすがっているだけだ。なにかしてないといけないというおもいにふりまわされているだけだ。
だけど、すごいことが起きたのだ。
今回の事は、自然にも文明にも頼れないもんなんだよ、というメッセージなのではないだろうか。足下はいつでももろく崩れるし、大事にすがっていた文明も危うい地盤の上に立っている。その危うさを肌身で感じている今だからこそ、翻弄される自分をいやでも見せられる。という事は、それを見ろと言われているんじゃないだろうか。
このまま原発反対も放射能除去もやりつづけても、解決はほんの少ししかないに違いない。大きな労力を使っても、果たせるものはほんのわずかだろう。だが人々はそれでもいいと言うだろう。
だけどその間に大事なものを見失う。
私たちが目を向けるところは、敵を作るその心にあるのだ。誰かのせいにする、その心なのだ。ダンナがわるい、子供の学校の先生がわるい、政府がわるい。。。そういい続けていたら、どこかの国がわるいとなって、やがて戦争になる。みんな出所は一緒なのだ。陰謀論もおなじだ。わるい事はトカゲ人間がやったって事にしといて、自分はわるくないとたかをくくる。
そうかとおもうと、今度は宇宙人がやって来て私たちを救ってくれるとか、地球の波動が変わって人類がアセンションするとかいう。これだって、昔で言えば、みんなが救われる大乗仏教のようなもんだ。そして修行を積んでアセンションする現代版小乗仏教もある。
そんなもんで救われるなら、こんなに心が苦しむ意味はなんだ?宗教がいつまでたっても人類を救わないのはなぜだ?むしろ戦争を引き起こすのはなぜだ?
私たちはすべての事を自分の外の物にたよる。外ものと比較して、あっちがいいとか、こっちがいいとかいう。あっちもこっちもないのだ。あっちがだめならこっち、でもないのだ。
問題は自分の心に抱えた習慣なのだ。その教えられた習慣であれがいいこれがわるいと言っているのだ。その習慣に気づくべきだ。私らはそんなに小さな存在ではない。何万年もこの地球上に生きていたのだ。今のこの文明が押し付けて来る価値観にとらわれてはいけない。この文明の価値観は人を小さくする。だけど、その文明によって私たちは洗脳されて来た。その洗脳を一つづつ外していくことでしか、私らは今の状態を切り抜けていけない。原発がだめなら火力発電、それがだめならフリーエネルギー、そんなことではないのだ。外にその解決法はないのだ。
見なきゃいけないのは、今私たちがもっている個人的な心だ。
野心、憎悪、嫉妬、怒り、悲しみ、自己嫌悪、自己憐憫、ありとあらゆるものをもっている自分自身をありのままに見る事だ。何の非難もなく、正当化もせず、完全に観察することは、自分自身の構造そのものを変容させる。たったそれだけの事が私たちは誰もできていない。自分の憎しみはどこかに置いておいて、人が憎しむ事を怒る。外、外、外、だ。
アセンションで悟る?そんな楽な話はない。外に自分を悟らせてもらうのかい?
自分自身を見る。自分自身を知る事によって変容が始まる。それが途方もなく重要な事なのだ。私たちはずっとそれを避けて来た。
「あとでいいや」と。
こんな時代に入ったのだ。きっといちばん大事な時間をもらっているんじゃないかとやまんばは思ったのだ。天変地異が起ってしまってからでは、そんな悠長な事考えてられなくなるだろう。今、まだこうやってコンピューターも作動して、電気もあって、ガスもある。いまだからこそ、心を静かに自分を見つめる事ができるのではないだろうか。
ネットで、敵だ味方だと言いあっているのをみるのにうんざりしたやまんばだった。
絵:二宮和也
2011年10月18日火曜日
林さんご登場!
おとついたんじゅん農法の林さんが、お忙しい中やまんばの畑に来てくれた。
ああ、なんておそれおおい!
このやまんばのへんてこりんな畑を
「ここの土はやせていてちっとも栄養がないが、ヨゴレもない」
と、ほめて(?)くれた。
これはいわば、借金もないが貯金もない、というその日暮らしのビンボー人のような畑だそうな。なんだ、やまんばの財布の中身とそっくりじゃねえか。
おもむろに支柱の棒をあっちこっちの地面につっこんだ。
「うん、50センチから、1メートル入る。まあまあいいんじゃないか」
つまり、野菜の根はそのぐらいの深さまで入っていけるということなのだそうだ。これから炭素の高いもの、雑草、イネ科の植物、剪定チップ、落ち葉、そこらの糸状菌がついた木の枝、なんと竹(!)までも、どんどん畑に突っ込め。そーすりゃあ、地面は3メートルまでほこほこになる。んーだば、チョーでっかい野菜がうはうはとれるんだと。なんだかおとぎ話みたいな話だが、今うちの野菜はちっこいちっこいありんこのフケぐらいのちっこい野菜しか育たないが、
「あとは、野菜は大きくなるだけだ」
とお墨付きをもらったどー!
一時間ほど畑でお話を聞き、その後うちに戻って講義を聞く。今回の参加者さんはなんと14人もいた。はじめてお会いした林さん。その世話人の城さんご夫婦、そして全く見知らぬ人々がうちに集まった。いやびっくり。なにがなんだかわけわからぬ。みんな熱心に林さんのお話を聞いた。
3ヶ月にも及ぶ日本中を回るご講義巡礼の旅もおとついが最終日だったようだが、疲れた様子も見せず、淡々とお話しされた。自己管理のゆきとどいたお方のようだった。何か使命のようなものを感じておられるのだろう。彼の言葉はとどまる事を知らなかった。あっという間に時間が経ち、3時半にお帰りになられた。
野菜は肥料で育つ。という私たちが当たり前に信じていた視点ではなく、全く違う視点から野菜や植物や虫をとらえた林さんの視点は、今のわしらの文明のありかたに大きな疑問を投げかけた。
「野菜にエサを与えて育てるんじゃない。土にエサをやるんだ」
「窒素は人間が作れるものじゃない。微生物に作ってもらうのだ」
一体何を言ってるのだ?とおもう。
林さんは「これはとっても単純な農法なのだから、たんじゅん農法。(ホントは炭素循環農法の略だが)むずかしいことはなんにもない」といってのける。
だけどわしらにはチンプンカンプン。それはたぶん、当たり前だと思っていた視点とまるで違う視点から見た理論だからだ。
わしらはイメージでモノを見る。そのイメージができるのは、過去にどこかで見聞きしたものと照らし合わせて見るからだ。
ところが林さんの視点は、わしらは今までもった事のない視点。つまりそれについて何もイメージができないのだ。だからむずかしい。
多分この世で常識とされている事のすべてのはじまりは、きっとこんなふうに誰もイメージできなくて戸惑った経緯があるに違いない。
「太陽が地球の周りを回っているんではない。地球が太陽の周りを回っているんだ」と言った誰かのように。
林さんは畑を見ればその人が分ると言っていた。頭が固い人の畑は固い。頭の柔らかい人の畑は柔らかい。この農法をいち早く理解できるのは、家庭菜園の人だと。むしろプロの方が理解できない。そしてもっと固いのは、自然農をやっている人々だとも。「あの人たちがいちばん頭が固い」そーだ。でへへ。わしだす。
「けど、今日の畑は柔らかい。あなたの頭は柔らかいな」といわれた。
げげー、ちょーはずかしい。
たんじゅん農法は、新しい農法ではないという。その昔マヤやインカやアステカでおこなわれていた農法だったという事が最近の発掘調査で分って来たのだと言う。そんなやまんばの心をくすぐるような事を言わんで欲しい。
山に近づける畑。いつのまにか福岡正信さんが言っていた理論とおなじところにある。林さんはそれを科学的に理論立てた方だった。
次の日畑に立つ。山と地続きになっているこの畑に、未来の姿をかいま見た。
林さん、城さん、そして参加されたみなさま、ありがとうございました。
その様子はたんじゅん農法の広場に掲載されていました。ありがとうございます。
http://tanjunnou.blog65.fc2.com/blog-entry-302.html
絵:今日の絵は、いつもコメントくれるぱぱさんのお子さんに影響されて作ったGANTZスーツの二宮和也の似顔絵だす。ビデオを見せられるたび、彼の魅力にとりつかれるやまんばであった。くそー。
2011年10月14日金曜日
ヒアアフター
きのう、「ヒアアフター」という映画を見た。「来世」という意味だそうだ。
臨死体験をしたり、あっちの人に繋がる人の話だった。
人は死を怖いと思う。なんでこわいのか。死んだらどーなるのか「知らない」からだ。亡くなった人ががばっとおきて
「おら、今あっちの世界見て来たど。あっちはなあ、こうなってああなって、こなってたど」と教えてくれるわけでもない。
中にはそうなって教えてくれた人もいるし、死者の言葉を自分の声を通してしゃべった人もいる。
しかしホントのところは、誰もそれを信じていない様子で、やっぱり「知らない」のだ。だからこわい。
わしらは、知らないことは怖いようだ。
だから何でも知りたがる。
「これは一体なんだ!?」
と発見したものがあると、得体が知れないから怖がる。すると誰かがやって来て、「これはこーゆーものです」というと、
「なんだ、そんなものなのか」と、ほっとしたり、
「これはこーゆーもので、おそろしーものです」というと、
「えーっ!そんなにおそろしーものなの!?」といってこわがる。
そしてその同じものを今度は
「使い方によっちゃあ、そんなにおそろしくないです」といってみたりする。「えー、そーなの?」
だんだんごちゃごちゃになる。
わしらは知りたがり、聞きたがり、やがてわけわからなくなる。安全と危険が入り乱れ混乱する。
すると結局「それ、わけわかんない」ということになって、やっぱりこわくなる。
わしらはこの世を知っている事で埋め尽くしたいようだ。なぜか。それが安心だとおもっているからだ。だけどホントに、この世に知っているものがあるんだろうか。自分の事だってわけわかんないのに。知って安心したいと思うのに、知りきれない事実があるのだ。だからいつまでたっても恐怖はすぐ自分の横にある。
でも人はどっかで恐ろしがりたがるところがある。
「死?ああ、しってるよ」
ってすでに死に対して解決ずみなら、誰も怪談話を聞いてぞぞ〜っとしないだろう。
「お化け?あんなの作り話でしょ」で終わるんじゃないか。
だけど、どこかで
「ホントかもしれない。。。」
とおもうから、背筋がぞぞぞ〜っとするのだ。
恐怖を取り除きたいのに、その恐怖を楽しんでいる。
君、バカじゃないの?
そうやってスリルとサスペンスを味わっているのが人生かもしれん。
さて、そもそも死後の世界というものがあるんだろうか。
ひょっとしたらそれは、わしらは死というものを知らないから、それは考えだされたアイディアなんじゃないだろうか。
死とは必ずやって来るもの。逃げたいのに逃げられない。どーする?
じゃあ、きっと死んだらその後があって、そこには天国や地獄があるにちがいない。だから天国にいくためには、生きているあいだにいいことをしなければいけない、という(人を恐怖によっておとなしくさせる)教え(おどし)も含めた、一石二鳥のグッドアイディアを生み出したんじゃないか。などとふとどきもののやまんばはおもう。
死後の世界を見た人はどーなる?
その人の背景が影響しないだろうか。クリスチャンだったり仏教の信者だったり、どこかで見たり聞いたり。。。本当に本当に誰からも何もそんなアイディアをもらっていない人はいるだろうか。わしらはみんな誰かに育てられているのだ。
死者とつながった人は?
その人の思いが伝わったのじゃないだろうか。死者を思う強い思いが、霊能者の心に響き、言葉を導きだした。そしてそれは、その人自身が深いところでそれを自分に伝えたくてやった事かもしれない。
絵:ラブロマンス表紙
2011年10月7日金曜日
私は何も知らない
借りたガーデンシュレッダーを返しにいこうと、その重いヤツをおっこらしょっと持ち上げた。瞬間、背中にピキッと何かが走った。
「あ。やっちまった。。。」
そうは思ったがそのままどすんと地面に落とすわけにもいかず、痛いままシュレッダーをかかえたまま階段を5段おりた。
「あ~あ、ぎっくり腰来ちゃったなあ。。。」
腰をさすりさすりおじさんところに返しにいく。そのまま畑に行こうとしたが痛みはどんどん増すばかり。こりゃ、畑まで歩けないと思い、部屋に戻って横になる。トイレに行こうと起き上がって、痛みがもっと増しているのに気がつく。
「やっべえ。。。本格的に来ちまった」
ぎっくり腰は何度もやっている。慣れっこにはなっていたが、ここ何年かぶりだった。あの痛みはやった人でないと分らない。
いちばん最初は、紙を切るためにもっていたえんぴつ型のカッターの向きを変えただけでなった。そのまま机の下に座り込んで全く動けなくなった。そのあとの長患いったら。思い出しただけで背筋が凍る。はあ~、ああなりたくないなあ。。。
近所の針をやっている人のところに電話する。いない。こりゃ、自分で治せってことかあ。。?
やまんばはじっと考えた。
私がぎっくり腰を怖がっているのは、過去にぎっくり腰をやった事を思い出しているのだな。あのときどんな痛みだった、あれからこんなに長患いをした、等々。
と、いうことは、知っているから怖いんかもしれん。その怖さが痛みを増幅しているのかもしれん。ということは、今回私がはじめて体験するぎっくり腰だったらどーなる?
ぎっくり腰というものを、「ぎっくり腰」という名前もしらず、どんな症状になるのかという知識もないとしたら。。。。
そこでやまんばは、歩きながら
「私は何も知らない」といってみた。
つまりこの痛みに関して、何も知らないのだ。この痛みの名前も、これがこの先どうなっていくのかも。
するとほんのちょっとだけ身体が軽くなった。もういっぺん心でいってみる。
「私は何もしらないのだ」
すると痛みが小さくなった。
「私は何も知らない!」
どんどん痛みが小さくなる。
な、なんじゃこりゃ?
やまんばは畑に向かって歩いた。一歩一歩身体を感じながら。
いつの間にか畑についた。あのさっきまで私を苦しめていたぎっくり腰の激痛は消えていた。かすかに腰が痛いのみになった。
あとは身体が自然に調節してくれるのだろう。それにまかせた。
あれから数日。痛みは消えた。いつもの私なら、今頃寝込んでいただろう。
一体何が起ったのか。私はただ、過去に経験した似たようなことをことごとく忘れただけだった。
私たちは何もかも知っているとフんでいる。文明がうんと進んで、うーんと人間は進化したと思っている。しかし知っているのはほんの一部だけなのだ。ぎっくり腰だってどんなメカニズムでなったり治ったりしているのか、本当のところは誰も知らないのではないだろうか。お薬飲んだり治療したりするけど、いろいろやるけど、けっきょくのところ、自然治癒しているだけなのかもしれない。だとしたら、誰も知らないのだ。ウイルスとかDNAとか言うと、なんだか知ってる気になるけど、だれもそのDNAを肉眼で見たこともない。どっかのおえらいセンセが仰せになったから、ご発見されたから、庶民はそれを鵜呑みにしているだけだ。
それにお名前を付けて
「これはこーゆーものですから、こーんなふうに症状が出ます。だからこれからこーんなふうに大変な事になるのでお薬、用意しときましょうね」
といわれたら、誰だって、
「センセが言うんだからまちがいない」
とおもう。
それを鵜呑みにしてそうなるもんだと思うから、そーなるだけのことだったりして。。。単にそれだけの事だったりして。。。
なとどふとどきもののやまんばは思う。
ほんとは私たちは何も知らない。それについて知っていると思うから心配したり、恐怖したりする。
世間は「知っていないといけない」とおもいこまされている。
「アーラ、あなた。そんな事も知らないの?」
なんて白い目で見られたりする。だけどどこまで知っていればケーベツされないのだ?どこまで知ってても、自分でまだ足りないと思ってしまうこの強迫観念。
このさい「私は何も知らない!」といってみよう。
心がなんだか軽くなるでよ。
絵:ハードカバー表紙
2011年10月3日月曜日
剪定チップ投入!
ぐっと寒くなり、畑の作業もやりやすい。今、秋野菜の種まきで忙しい。1メートル越えしたメヒシバちゃんも勢いを失い、黄色く枯れてナヨッと倒れ込んでいる。このチャンスを逃す手はない。
やまんばはそれを根元から刈って脇に置き、裸の畝を出現させる。ほお、こんなところに畝があったのかい。と独り言を言う。
それからうちからもって来た剪定チップをバケツ一杯運び込み、その畝の上にばらまく。先日近所のおじちゃんから借りて来たガーデンシュレッダー。ジャングルになったうちの庭の枝を「ぎゅわ〜ん、うい〜ん」と1、2センチのチップにした。袋に入れておくと、中が温かくなる。一人発酵がはじまっているらしい。たんじゅん農法はそのエネルギーを土の中で生かしてもらおうという発想だ。
ばらまいたチップの上に、今度はメヒシバちゃんをハミキリで5センチ程の長さに切り、これもばらまく。米ぬかがあったらこれも入れる。発酵を促すようだ。中くらいのクワで、浅く畝の土をほっこり返してチップとメヒシバと米ぬかをスキコする。どーよ。たんじゅん農法もどきの畝、できあがり〜。仕上げに油かすもちこっと撒いてみた。
この方法でシュンキク、ほうれん草、小松菜、ノラボウ、ミズナ、壬生菜、サンチュ、などを撒いてみた。さて。どーなるかなあ。
今年の夏は、ピーマン、トマト、シシトウ、オクラが頑張ってくれてそれなりにとれた。だんだん畑が変わっていくようだ。そうそう、今は去年までいたコオロギちゃんがあまりいない。なんでだろう。畑で一歩踏み出すたびに、50匹くらいのコオロギちゃんがびょんびょん跳ねていたのに。
買ってきたキャベツ、白菜、ブロッコリー、スティックセニョ〜ルの苗は、スティックセニョ〜ル以外順調だ。チョウチョがキャベツやセニョ〜ルのまわりをひらひら飛んでいた。あとからハッパの後ろを見ると、ちゃんと卵を産んでいる。スティックセニョ〜ルについたヤツだけを取り除いた。ところがその後、そのスティックセニョ〜ルだけが枯れてしまった。掘り起こしてみると、根っこがちっこくなっていた。そのまわりに落ち葉の白いはんぺん。ちょっときつすぎたのかなあ。。。それにしてもやはりチョウチョは知っていて卵を産みつけたのだろうか。「あ、こいつそのうち弱る。。。」って。。
キャベツに卵がついていたかは確認していないが、穴もあかず元気に育っている。
自然はいろんなことを教えてくれる。。。
絵:絵本英語教材