2009年11月28日土曜日
見せる洗脳
人はビジュアルに弱い。
いったん、絵で見せられたら、それはそーゆーもんだ、と思い込む。ましてその映像が動いていようもんなら、まるでその世界が実際あるように思う。これが洗脳。
この洗脳は日々行われている。
あまりテレビを見なくなったが、たまに見ると、その洗脳の嵐にいやけがさす。コマーシャルのこれまた押し付けがましいこと。余計なお世話じゃわい!ってくらいタタミカケルように洗脳する。
「歯周病をカット!」とか
「ヨゴレを根こそぎ!」
「お口の中は、こ~んなにヨゴレています。モンダミンでさあ~っと除菌しましょう!」
などというチャッチコピーといっしょにリアルな映像が展開される。
俳優さんは巨大な歯の中に入り、歯に「こびりついた汚いもの」を指し、これをささ~~~っととりのぞきます。ほらっ、こんなにきれいになりましたあー。と、懇切丁寧に説明する。
ニキビもナントカという薬を塗るとニキビがこんなにきれいになくなりました、とアニメで見せる。でも根絶はしない。少しだけニキビを残す。これがコツ。完全になくなる映像にしたら、クレーマーが何を言い出すかわからない。そこでクライアントのいい訳のために少しだけ残しておくのだ。
わかっちゃいるけど、見せられると、何となく効くような気がしない?単なるアニメなのに、それが本当のことのように思えてくる。ましてや何度も何度も同じ映像を見せられ続けると、無意識の中に入り込んでくる。そして「お口の中はいつもばい菌でいっぱい」「あのコマーシャルのやつで洗い流さないと歯周病になってしまうわ」と信じ始めるのだ。
私は歯磨き粉を使っていた頃は、よく歯茎から血が出たり、歯茎がはれたりした。分けもなく歯が痛くなって悩んだりもした。でも歯磨き粉をやめてから、いっさい血もでない、はれない、ほんでもって、歯も痛くなくなったのだ。いったいこれってなに?
ふんとに、ふんとにお口の中はいつもばい菌にまみれているの?歯磨き粉で磨いていないと、歯周病になるの?
ほんとは逆じゃないのか?歯磨き粉で磨くから、歯周病になったり、歯がはれたり、血が出たりするんだったら?
実は知り合いの何人かが、歯医者からこういわれているのを聞いた。
「歯磨き粉に虫歯を防ぐ効果はないし、研磨剤が入っていて歯を削るだけ」と。私も歯医者さんから言われたことがある。「使っても意味ないよ」と。
にもかかわらず、歯磨き粉を使っていたのは、ひとえにコマーシャルの宣伝文句が無意識に人を動かしているからではないのか?
それって、こわくね?
知らない間に洗脳されて、知らない間にわざわざ体を壊していたら。。。?
こうした方が健康のためだとか、こうした方があなたのためだとか(ホントにそういっているCMもある)、一見親切に教えてくれているように思えるけど、そのクライアントの根本的なところは、お金儲けだ。
昔、テレビを見たら馬鹿になると言われていたのに、いつの間にかテレビの言うことは間違いないと思うようになってしまった。理性が洗脳に負けてしまった。
絵:むか〜しむかしのカット
2009年11月27日金曜日
ビックリキクイモ
キクイモを収穫。
キクイモって聞いたことなかったんだけど、北海道で自然栽培を営んでおられる方からいただいたのだ。形は...なんかこんぺい糖のお化けみたいな感じ。食べてみると、レンコンのシャキシャキ感とかすかにゴボウのようなアジがする。形に似合わず癖もなかった。イヤシイ私は「ゆっくりあとで食べよう〜」
と、冷蔵庫に保管。そのまま忘れる(よくやる)。
で、ある日野菜室に見かけない袋を見つける。
「何だっけ?これ」と開けてみるとキクイモ。(なに忘れてんだ?)
するとキクイモから芽らしきものがでているではないか。
「さすが、北海道産は違うなあ〜。冷蔵庫にいても芽が出てくるゼエ〜」
と、キクイモを小さく分け、無造作に畑のすみにつっこんだ。
それから春に小さな芽が地上に顔を現わし、どんどん成長した。夏本番頃は私の身長を軽く超えていった。2メートルを超えようとするころ、かわいい黄色い花が咲いた。それがちょうど菊の花に似ているので菊芋なのだそうだ。近所のおばちゃんにもお花のおすそわけをする。なかなかいい花だ。花も楽しみ終えて、枯れはじめた。そろそろ収穫時。
そして先日、友達と掘ってみた。
枯れ枯れになった枝を切って、根元を持ち上げる。
それらしいものは見当たらない。根っこのまわりにはこんもり土がついていた。穴が開いた畝を覗いたが、何も見当たらない。
「おっかしいなあ...。まだできていないのかな....?」と、手を突っ込んでガザゴソやった瞬間、ごつごつしたものに触った。もちあげてみると、土にまみれたこんぺい糖が....。
それからどこに手を突っ込んでもこんぺい糖に触る。根元のまわりについた土のかたまりは全部こんぺい糖だった。それからそのまわりを探るとデルワデルワこんぺい糖の嵐、嵐、嵐〜〜〜〜〜っ!(キクイモです)2株ちょっと掘っただけでバケツ2杯になった。恐ろしくなった私たちは、まだ残っているこんぺい糖をそっと土の中に隠した....。
何でも聞くところによると、キクイモは「天然のインシュリン」と言われるほどイヌリンがぶっちぎり豊富なのだそうだ。
イヌリンは血糖値を上昇させない。インシュリンの分泌を抑えるから、糖尿病予防や肥満予防に効果がある。また腸内のビフィズス菌のエサになって、整腸作用や便秘解消になるそうな。
なんだかわからんが、現代人にはよさそうじゃないか。相当栄養価の高い野菜らしい。野菜というよりは野草に近いそうだが。
きんぴら、サラダ、煮物、揚げ物、お漬け物。なんでもござれ。キクイモ、バンザイ!
翌日、恐る恐る土の中にそっとしておいたキクイモを探す。あったあった。またどんどんでてくる。おいおい、畝の外にまで広がっているではないか。わしに断りもなく、一体どこまでイモ作っとんねん!
どうも高尾の土地がこのキクイモさんには合っていたようだ。近所に糖尿病で悩む人々がたくさんおられる。まわりでキクイモを植えているの農家はみあたらない....。ぐふふ...。ここ高尾をキクイモの産地にしてしまって、糖尿病の一気解決だー!
夢は広がるどこまでも(単なる妄想か?)。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」掲載
2009年11月24日火曜日
2009年11月22日日曜日
権兵衛オヤジ
むかーし、あるところに権兵衛というオヤジがおった。オヤジは朝起きた瞬間から、ため息をついた。
「あ~、きょうもつらいなあ」
窓から曇り空を見て、
「あ~、寒いだろうなあ。野良仕事はつらいなあ」とぼやく。
おっかあに握り飯を作ってもらって、リヤカーで仕事場に連れて行ってもらって、そこで一日働く。日当はわずかなもんだ。そこでぼやく。
「なんでオラはこんなに働いて、こんだけの駄賃しかもらえねえんだ?」
昼時に道ばたで握り飯を食いながら、お侍さんたちの姿を見る。でっかい刀を腰からぶら下げて堂々と歩いている。村の衆はみんなペコペコ頭を下げる。
「オラ、こんな仕事やるために生まれてきたんじゃねえだ。あんなふうに人様からうらやましがられる仕事をするために生まれてきただ。ああ、いつんなったら、こんな仕事から抜けられるんだ。こんなのオラの仕事じゃねえ!オラの人生はなんてつらいんだ!」
権兵衛の顔は苦悩で歪んだ。
権兵衛には特技があった。権兵衛にわらじを作らせたら、天下一品だった。そのわらじをぜひうちで商売にしたいというあきんどがいた。それで商売したらいい銭になる。なのに権兵衛は「あのあきんどのやり方が気に入らない」とか「おらの大事なわらじを置く棚が気に入らない」などといって、いちゃもんをつける。そして決まって「だからオラの人生はつらいんだ!」と叫ぶ。
ある日、権兵衛は、道ばたで牛車にはねられた。野次馬がやってきて、おおさわぎ。「大丈夫か。おい。」と口々に声をかけた。すると権兵衛オヤジはすっくと立ち上がって、「おら、なんてことねえだ」といった。
家に戻っておっかあに「オラ、今日牛車にはねられただ」というと、おっかあは、
「日頃、人といつもぶつかっているから、牛にぶつけられたのよ」といった。
ーーー
解説(長いのでよろぴく):
このオヤジにはある種の特徴がある。
彼はどうも「人生はつらい」という方程式をもっているようだ。日常的な些細なことから仕事からすべてを「人生はつらい」という方程式につぎつぎと当てはめては、納得をするというクセを持っている。多分人生の最初の頃に何かとてもつらいことがあり、そのときから「人生はつらいものだ」という結論に達したのだろう。その持論を証明するために(無意識に行われる)、起こるできごとをその方程式に当てはめては、「やっぱり人生はつらいものなのだ」と次々と立証していくのだ。
だが、その方程式の行き着く先は「人生はつらいのだ」という結論しか待っていない。その結論を死ぬまで持ち続けて生きるのはつらいだろう。
では、なぜそんな持論を持ち続けているのか。実はそう思うことによって「この世を生きている」という実感が持てるからなのではないだろうか。これが心の厄介な部分なのである。
じゃあ反対に「この世は幸せに満ちている」という方程式を持つことだってできるじゃないか。しかし人はたいてい幸せな気分に浸る時間よりも、不幸なこととを考えることに時間が費やされる。
じっさい体が元気なときは、人は体のことなんか忘れている。「ああ、私って健康!」と四六時中思う人はあまりいない。反対に体がきついときほど、じーっとその体のきつさに意識が集中しているものだ。
心はいつも何か考えることを探している。それが心というものだ。
そしてそれはたいていネガティブなことに費やされる。このオヤジの場合は、人生はつらいという方程式に当てはめた。それを立証するために物事は展開している。。。。のように見えるが、じつはそうではない。その視点に立てば、いつもそのように見える。しかし、別の視点に立てば、物事はがらりと変わる。
よく考えたら権兵衛オヤジはとてもラッキーなオヤジなのである。
ラッキーその1:オヤジには寒さをしのげる家がある。
ラッキーその2:オヤジには握り飯を作ってくれるおっかあがいる。
ラッキーその3:おっかあにリヤカーで仕事場まで運んでもらえる。
ラッキーその4:オヤジには働くところがある。
ラッキーその5:オヤジにはわらじ作らせたら天下一品という特技がある。
ラッキーその6:そのわらじを売りたいというあきんどがいる。
ラッキーその7:牛車にぶつけられてもへっちゃらだった。
不幸はその人のものの考え方が呼ぶ。はたから見たらとても幸せな状況に置かれているように見えるにもかかわらず、その人の考え方次第で心の中は嵐が吹きすさぶ。ということは、すべては心の向け方に関わってくるということだ。
「心」はいつも何か考えることを探しているとしたら、そしてそれはネガティブなことに心がいきやすいのだとしたら、人間というものはなんて不幸な存在なのだ。そしてその不幸は、思いが先行しているだけで、単純にそれがこの世の不幸を呼び込んでいるとしたら。。。?
権兵衛オヤジはそのことに気がついた。自分の心がいつも不平と不満でいっぱいだったことに気がついた。
「おっかあ、オラなんてとんちんかんだったんだろ」
それからというもの、権兵衛は自分の心のクセを日々見つめるようになった。気がつけば、息を吸うように常にその法則に向かおうとする心がいる。そのクセはそう簡単には外れなかった。しかしそれを意識した瞬間から何かが変わり始める。薄紙をはがすように少しずつ少しずつ権兵衛は変わっていった。
それは漆黒の闇から、ゆっくりと空が染まり始めるように。。。
おあとがよろしいようで。
絵:絵本「The Drums of Noto Hanto」より一部抜粋
2009年11月17日火曜日
石けんなし生活8ヶ月め
「勝手に石けんなし生活」をはじめてから、まるまる8ヶ月がすぎた。歯磨き粉、洗顔石けん、体を洗う石けん、シャンプーリンス、なんも使わなくなると、なくってもなーんも支障がない。
石けんっていったいなんだったのだろう?何のために私は必死で洗ってきたのだろう?
今はお湯でじゃばじゃばやるだけのシャンプーなしシャンプー。最近、髪の毛が、カップラーメンの宣伝文句じゃないけど、コンブトになってきた。抜け毛も少ない。洗うときに10本以内、タオルで拭くとき15本くらい。抜け毛にお困りの方には、ぜひシャンプーなしをおすすめしたいくらいだ。洗面器にお湯を張り、頭をそこにつっこんで、指の腹で頭皮をごしごし。髪の毛はわかめを洗うがごとく、もみもみ。それだけ。3、4回洗面器を使えばおしまい。仕上げにお水で頭を流す。(リンスの代わり)それも2日に1回だけ。これで、かゆみもなければ、ふけも出ない。さらさらヘヤーのできあがり〜。一回これをやり始めちゃうともうシャンプーなんて恐ろしくて使えないのだ。ただ、ここまでさらさらになるのに半年は我慢しなくてはいけない。それが女の人にはちょっときついだろうな。男の人は意外と簡単にできるよ。
使わなくなると、石けんを使っていていろんなトラブルがあったことに気がつく。シャンプーリンスでは、髪の毛は細く、抜け毛多く、枝毛多く、ギシギシした手触りに、フケ多く、かゆみもあった。石けん使うと、体が臭くなる(これ、ホント)。夏はべたべたした肌になっていたし、冬は逆に乾燥お肌になった。
体もシャワーを出しながら、手でさすって洗い流すだけ。歯磨きは単にブラシだけで洗っている。顔もじゃばじゃばお湯と水で洗うだけ。あとは湯船につかって「あ~、極楽極楽」とつぶやく仕事があるだけだ(これが一番大事な仕事)。
いつもならちょっと寒くなったり、乾燥したりすると、のどがやられていたのに、それもない。ちょっとのどがいがらっぽいかなあ~とおもうと、自然に口の中に唾液が出てくる。以前気功をやっていたとき、中国人の先生から「唾液は宝石」といわれたことがある。松の木の前で気功をしていると、唾液が出てくる。それは宝石の液体だから、大事に飲み込みなさいといわれたことを思い出す。飲み込んでいるうちに、のどのいがらっぽいものもなおってくる。
人間の体っちゅうもんは、なんちゅー英知に満ちてんだあ。ああでもない、こうでもないと、いらん心配する前に、「困ったときはそのままにしておけ」なのかもしれんなあ。
実は畑にもまったくこれと同じことが当てはまる。化学肥料も、堆肥も、腐葉土も、有機肥料も何も入れていないのに、そこにある草と一緒に野菜は大きくなってくる。草をちょっと刈って横においておくだけで、それが栄養となって、大根を育ててくれる。虫も幼虫もいっぱいいるが、穴空きだらけの野菜にはならない。ちょこんちょこんと穴はあく。それでもレースのようにはならない。ゆっくりと、でもたくましく育ってくる。大根の葉っぱをちぎって大麦の畝の上にのせておいてあるが、一週間たっても腐らないどころか、枯れもしないで、そのまま元気な青い姿のままでいる。
ここん所イノシシの被害がすごい。周りの畑はみんな地面をひっくり返されている。うちの畑にもおとつい昨日と二日続けてイノシシがフェンスを突き破って入ってきたようだ。でもどこも荒らされていない。どうもうちの畑には彼らが好きなミミズはいないようだ。ほかの畑は栄養がいっぱいで、ミミズも多いのだろう。うちは山の自然とほとんど一緒なので、ミミズもあまりいない。だからイノシシにそっぽをむかれたのだろう。
でもそれでいいのだ。自然の姿を見習うのだ。人間という自然の姿そのままをそのままに扱うのがいいのだ。口から出る液体にはばい菌がいっぱいとか思っちゃうと、唾液さんに失礼なのだ。すべてはちょうど良い感じに、自然さんが整えてくれているのだ。
人間の体は大自然のたかまり。英知の結集だ。調子が悪いと自然と何かが変化して悪いところを直してくれている。「困ったら、そのままにしておけ」は偉大な言葉なのだ。焦って、石けんや、消毒や、ワクチンを打つ必要はないのかもしれないではないか。風邪は万病の元ではあるが、それは無理をすれば体がバランスを崩すからそれを調節をするために必要な時間をくれているのではないか?人間の知恵では推し量れない自然の英知が、じつは気がつかないだけで、そこかしこに散らばっているのではないのだろうか。
「勝手に石けんなし生活」は、日々偉大なことを気づかせてくれる。
絵:オリジナル絵本「あめがくる」より
2009年11月16日月曜日
切った貼ったの人生
知り合いにAさんというおばさまがいる。友達と呼ぶにはずいぶん年が離れているから「友達」というのもなんだから、お知り合いということにしよう。彼女はちょっとおしゃれな喫茶店やお店や場所を見つけてくると、私のところに電話をかけてきてくれて、「いっしょにいこう!」と誘ってくれる。
いつも元気で、歩き回ってはそこらへんの人たちとすぐ知り合いになってしまう。街で「機関銃のようにしゃべるおばさん」といえば「ああ、あの人ね」とすぐわかるくらい有名。
そんな彼女は若い頃から病気がちで、入退院をくりかえしていたらしい。彼女流に言うと「あたしなんて、切った貼ったの身体なのよ!」だそうな。とてもそんなふうには見えない。健康そのもので、毎日どこかしらを歩いている。で、どこまでも歩いていく。先日は八王子に誘われて、「これから高尾まで歩いて帰りましょう」と言われた。ちょっとびびって「ど、どのくらいかかる?」と聞くと「そんなのすぐよ。2、3時間でついちゃうわよ」と簡単に言ってくれた。
彼女に聞いてみる。
「薬飲んでる?」
なんでそんなことを聞いたかと言うと、先日町内会の人たちから聞いたことが、頭からはなれなかったからだ。町内会の「老人会」に出席された60才から80才までの高齢者の方々で、薬を飲んでいない人がいなかったからだ。ある人など、朝8錠、昼5錠、夜6錠(ということは1日19錠!!)毎日飲んでいる。よく薬を飲み間違えて大変なことになった話を聞くが、これでは間違えない方がおかしいくらいだ。
そこまで薬をのまないと健康になれないのか?というより、そんなに薬をのんで、よく平気でいられるなあ...と。むしろニンゲンの強靭さを感心せずにはいられない。しかし一方で、これは製薬会社の陰謀じゃねえか..?と、勘ぐってしまうのだ。
で、彼女いわく。
「薬?薬なんか飲んでないわよ。これっぽっちもね」
「へえ、なんで?」
「だってあなた、これだけ手術や薬に頼ってきたあたしが、やっとわかったことは、薬では病気は治らないって事よ」
「じゃあ、何で治すの?」と私。
「食事よ!食事!それとストレスためないことね。言いたい事は、はっきり全部言う!」
そんなAさんだが、ちゃんとTPOはわきまえている。言ってはいけない事もちゃんと知っている。そしてぐだぐだ考えない。考えを引きずらない。完全に自己完結している人だ。
近頃は高齢者の方と話をしても「年がいくとねえ〜....になるのよ」とか「年取ったから....になっちゃった」などとよく聞く。どうも口癖になっているようだ。そういうことによって、自分の老いを受け入れようとしているのか、いいわけをしているのか。そのあとに続く言葉は「あんたもなるんだから、気をつけなさい」だ。そんな言葉は私を元気づけてはくれない。ますます縮こまってくる。
Aさんの言葉には説得力があった。心の奥底にポンとひびいた。やっぱそっかー、そうだよな。
いちいちの言葉が、この人は何かを知っている人だな、と感じさせてくれる。そこらのありきたりのテレビでよく使う言葉なんか使わない。私を縮こまらせてはくれない。反対にもっと大きくなりなさい、と言われているような気がする。
こういうおばさまは、この地球のどこかしらに密かに存在しているのだ。そういう人たちがこの世を根底から支えてくれているのかもしれないなあ。
追伸:先日うちの畑にはじめて連れて行った。彼女は草ぼうぼうの畑のまん中に立って、
「ほーっ、ほっほっ!畑はこうでなくっちゃあねー!」
と、雄叫びをあげてくれた。
絵:ラブロマンスペーパーバック表紙
2009年11月14日土曜日
美しい宗教家はええのう
ここだけの話(どこだけや)、最近マイブームがある。仕事の合間に一人で覗いているネットがある。
何年か前に、ある男の子が「わしゃ、ジャングルにこもる」といって、飲まず食わずで何ヶ月も瞑想を始めちゃった15才のネパールに住む男の子の話を聞いた事がある?菩提樹の木の根っこの間に入って瞑想をしているシーンを見たことない?ブッダの生まれ変わり とか言われている少年。わしゃ、はっきり言ってブッダが生まれ変わるわけがないと思っているので(涅槃の境地に達したのだから)、その子はニンゲンの可能性を表現した子、とおもっている。
あの子が今は19歳くらいになってジャングルから出てきて人々に説法をおっぱじめちゃったんだ。その顔がこれまたイケメンなこと!(やっぱ、そこかい)
何でも今でも飲まず食わずで生きているらしい。そのわりには筋肉隆々でちょっとウェブがかかった長い髪をなびかせて美しい。(近所の友達に似ているのでビックリした。でもその子をもっと美形にしたかんじ〜)にこりとも愛想をふらない。そこがまたいい。ネパール語でとうとうとしゃべっていて、何言ってるかさっぱりわからん。英語に訳したものが出ているが、これがまた翻訳ソフトにかけると、ますます何言っているのかわからん。3年間ジャングルにこもるといいつつ、途中で出てくる。飲まず食わずであそこまで美しい身体でいられるはずはないし、果物を食べたり、水を飲んだりしているシーンを見たという人もいる。であるから、今んところ現代人には眉唾扱いをされている。
でもわしゃ、そんなもんどーでもいいのだ。80時間近くビデオで撮って証明されたのだ。それだけでもすごいではないか。80時間も飲まず食わず、トイレにも行かず、眠らずでいられるもんか?
じゃあちょっと我慢大会やってみるかってなもんで、おいそれと出来ることじゃない。日頃普通にやっているから出来ることなんじゃないか?証明証明って、現代人は何でも科学的に分析したがる。それが何だというのだ?彼はそんなことを証明したがっているのではなく、ただ瞑想しているのだ。自分の中の宇宙を体現しようとしているのだ。
ほんな固いこと言わずに、たまにはバナナ食べてもいいじゃあないの。水飲んだっていいじゃあないの。おばさんはゆるす。
そのホームページにはその子が火の中に座っているシーンもある。途中、熱くなって立ち上がってそこで必死で耐えて、自分の雑念の中で苦悩しているシーンも写っている。がんばっているじゃあないか。おばさんはゆるす。
どうもサイババさんじゃ、もりあがれないのだ。バブーティをくれるからいいのかもしれんが、あの顔では見ほれられない。同じサイババ系のパパイヤ鈴木は(同じ系?)、何とも言えないいい顔をしている。テレビに出てくると、マジマジと見ほれてしまう。私の友達でパパイヤ鈴木に似ているおねえちゃんがいる。最初にあった時、びっくりした。あまりに美しいから「パパイヤ鈴木に似ている」と言ったらおこられた。私は褒めたつもりだったのにい。
そういえば、宗教家で美しい人は結構いる。イエスキリストもそうだし(見たことあるんか?)、シュタイナーだって美しい。ガンジーもいい顔しているし、クリシュナムルティも美しい。出口王仁三郎は、別な意味でおもしろがらせてくれる(コスプレおじさん)。
どうも美形にヨワイ私。仕事でも人物を描きながら、ああ〜あなたのそのおめめがステキ!とか、このあごのラインが美しいワ〜ン、と一人ぶつぶつ考えながらやっている。ようはその人物に(男でも女でも)ほれてまいながら描いているらしい。だから自分と正反対の人物像になってしまうのか。
そのネパールのお兄ちゃんは、その後またジャングルに引きこもったらしい。そのうちまた飽きて出てくると思うが、またその時の変容ぶりを楽しみにしていよう。ぐふふ...。
ダンナに言わせると「どうせまた、あきるんだろ」と、つめたい。
絵:「アラビアのロレンス」ハーバードビジネスレビュー掲載
2009年11月11日水曜日
よげんのショ
ちまたでうわさになっちゅう(?)マヤカレンダーっちゅうもんをちっくとかんがえてみるきに(何でいきなり高知弁?)。
それによると、なんでも2012年の12月21日あたりに人類が滅亡するとか、いやいや、そんな悲劇的なものではなく、その日を境に今の人類のものの考え方ががらりと変わり、戦争やいかがわしいものがなくなり、パラダイスがやって来るとかいわれている。
わたしも退屈な日々を、このような楽しげな話で、気を紛らわせちゃったりなんかしていたが、それもあきてきてしまった。
どうも黙示録や終末説は、人類始まって以来、何十個何百個とあったらしいのだ。わたしもノストラダムスの予言にもハマってしまったタイプなので、このマヤカレンダーは、あの中学生だった頃のコーフンを思い出させてくれはした。で、結局大王は空からふってこなかった。
今回がちょっと違うのは、いつも滅亡だの終わりだのと言って人々を恐怖におとしいれる「予言の書」が、今度は新しく生まれ変わるのだとか、パラダイスの始まりなのだという、ポジティブな予言の書にすり替わっていることなのだ。
でも結局のところ、今の生活を何かしら劇的に変えてしまいたいという精神構造から来ているようにおもえる。つまり退屈な日常からの脱出願望だ。
よく考えたら、人類の考え方が一辺にがらりと変わるくらいの簡単なもんだったら、一人一人がこんなに人生に苦悩しているのは、どういう意味があるのだ?そんなふうにころっと全員の意識のスイッチが切り替わっちゃうんなら、さっさとやってくれってなもんだ。
ある日突然、まわりの空気が変化して、光が見え、すべてが美しく、まわりの人々の心が綺麗になり、自分の心も澄んでいく....んなら、今までの苦労はなんなのよ。
そういうと、いやいやウチューのサイクルが変わるのだよ、つくしちゃん、なんて言われても説得力がないっちゅんじゃ。そもそも「宇宙のサイクル」という一本の線上に置かれた時間概念、過去、現代、未来...などという時間という概念は、宇宙にはないはずだ。だからサイクルが変わるという考えこそが、地球に住んでいる人類が勝手に作り上げた概念にすぎない。だからカレンダーという考え方も、この人類のものだけのことだ。いや、この人類というよりは、今この次元に住んでいる私たちだけのものだ。(畳2畳分くらいしかないかも....)
時間と空間があって、物質が存在し、自分と他人が別れていて、それぞれの心のうちは、他人には聞こえない...などという次元。
それは5感というちっこい5つの穴から世界を見ているだけのわしらの世界。ホントは後ろを振り返れば、そこが大宇宙そのもので、すべてがわかっている世界なのかもしれないのに。「よげんのショ」と書かれた小さな小さなナノレベルの穴の中に目を突っ込んで、そこから「未来はどこだ?どんな未来が待っている?」と覗いているだけなのかもしれん。
私は何かが劇的に全員を連れてどこかに運んでくれるとは思えない。自分のおとしまえは自分でつけなきゃいけないのだ。この退屈な世界から脱出することは、予言のショがやってくれるのでも、ある日ウチュー人がやってきて、額に指を当ててビビーンときて、人生が変わっちゃうわけでもないのだ(つまんないことに)。パラダイスは自分で持ってくるしかないのだ。
でもそれは必死になって生きることでも努力することでもないようだ。ただその5つの穴しかないと思い込んでいることからスッと離れることなのだ。5つの穴が開いたお面から覗くことをやめることなのだ。
それはこれが自分だと思い込んでいる仮面をはずすことなのかもね。
それは、すんごく簡単なことなのかもしれない。ただ外すのがこわいだけだ。
なんか21世紀少年みたいになってきたなあ....。
絵:「ジュリアスシーザー」ハーバードビジネスレビュー掲載
2009年11月5日木曜日
冬支度
壬生菜、タアサイ、チンゲンサイ、大根...。
我が家の冷蔵庫の野菜室はいつのまにか秋冬野菜に変わっていた。それまでピーマンとなすとキュウリにあふれていたのに。季節は巡り、野菜も変わっていく。私の身体も冬支度を始めている。山のふもとに住んで目に季節を感じるようになっていたが、土に触れるようになってから、口でも季節を感じている。
ぜっ.....贅沢だあーーーーーーっ。
物質的には健康を害するものは何もない。こんな環境の中でいたら、さぞかし人は健康そのものだと思うが、近所の人はそうでもなかったりする。みんなどこかしらわずらっている。ということは、やはり心の問題がニンゲンに影響を与えるのだろうな。
私もマックちゃんがストライキを起こして色々考えた。結局そのとき思い煩っても、流れていく方向に変わりはないのだと思う。何かが起こったとき、「ひえええ〜〜っ」ってドタバタしても、「あ、そ」と平静でいてドタバタしなくても、結局同じところに行き着くかんじがする。人は自分でなんとかできるような気がしている性分だが、ほんとはなんとかするんではなくて、なんとかなっていくんではないだろうか。自分でやっている気になっているが、勝手に流れて行っているだけなんじゃないか?
そうおもうと、ドタバタして、あせって、必死で物事を解決する方向よりも、「なんとかなるだろう」と、心を静かにしていることの方がうんと楽な気がする。
野菜を作っていても、草を見ながら、だんだん自然が変化をしているのを感じる。きっと大地も冬支度をしているのだ。草が「ひええええ〜っ、大変だ!冬がやってくるぞ!」といって、バタバタしているようにはみえない。淡々と移行しているように見える。
すべては流転している。一瞬でもとどまっていることはない。私たちのからだのなかもすごい勢いで変化をしている。ただ気がつかないだけだ。その変化に身をまかせることが理にかなっているのかもしれない。何かが起こっても、それも変化の一つにすぎない。目先のことばかりに目を奪われると、人は変化を怖れる。けれども遠くから見ると、その方向性が見えるはずだ。ところがその視点を持てないニンゲンは、起こったことにいちいちに反応してしまうのだ。
それが人の心や身体を衰えさせていくのかもしれない。たとえどんないい環境に置かれていても、病いが消えない理由なのかもしれない。
ひたひたとやってくる冬の気配を感じながらおもう。
すべてに完全に身をゆだねられる強い心を作っていきたいなあと。
絵:けんぽ表紙「境内の秋」
2009年11月4日水曜日
いきなりマックが2台
「ぜんぜん動きません...。立ち上がらないんです...。これではデータの救出もできないかもしれません....」
パソコン修理のドクターは、電話のたびに悲観的な言葉をくれた。
ああ、やっぱだめなんだな。もう寿命だったのかー。しかしデータがおしい....。ああ、あの作品気に入ってたのになあ...。あふれてくるネガティブな気分を打ち払い、なぎ倒し、心の平静を保とうとする私。今は修理代も苦しい私。ましてや買い替えるなんて...。マックは高い。げげー、どないしょー。現実的にはけっこうきつい。心はぐるぐるする。でもこうなることにはなんか意味がある。日頃の精神統一がここでモノを言う(そんなのやってたっけ?)
で、ついに、もうえっかーってな気分になる。よしっ!あしたピッカピカの最新式を買いにいこう!と決めた。
ヨドバシでピッカピカのたっかいマックちゃんを買う。景気づけにワインも2本買う(意味が分からん)。ふんふんと鼻いき荒くうちに帰ると留守電が...。
「マック、治りました」
ええ〜〜〜〜〜っ!よっ....、よかったーーーっ!
でっ....でも、これ、どーするの...?
いきなり修理代と新しいマック代がどどーんとおおいかぶさってきた。し....しかしこれにも意味があるはず....。
新しいマックちゃんはものすごくきれいだった。しかもものすごく速い。中のソフトもものすごい。クラクラする。ところがあまりに最新式すぎて、まわりの仕事関係がおいつかないらしい。こいつ一人で先走ってるかんじなのだ。
いやいや、きっとこの新旧取り混ぜた環境が、これからの私を育ててくれるのだ。
これからがんがんかせぎまっせ〜。
という事で、前置きが長くなりましたが(いつものことや)、
一時的メルアドではなく、いつものメルアドに無事戻りました。
いつものところにお送りください。
バージョンアップして、みなさまのメールをお待ちしております。
お手数をおかけいたしました。
そしてマックドクターさま、ありがとうございました。
絵:coopけんぽ表紙「大漁!」
2009年11月2日月曜日
マックちゃん入院中
愛しのマックちゃんが、ずーっと入院したままだ。かかりつけのお医者さんが言うには、「相当ダメージが来ています」だそうで....。
なんでもおなかを開けるのも苦労したらしく、いざ開けてみると、ほこりだらけ。一体私はマックちゃんに何を食わせていたんだか。中の中まで入り込んでいたらしく、それがショートしちゃったかも、とのこと。つまり私が埃ばっかり食わせたもんだから、消化不良を起こしちゃったわけだ。そりゃ、ストライキ起こすわな。「おまえ、ええかげんにせーよ!」と。
だんなも仕事中に車にはねられちゃったし(信じられんけど、無傷)、なんか私たちの中に今揺さぶりをかけられているかんじがする。
マックちゃんが無事に帰ってくるもこないも、すべて天にゆだねられているのだ。今ここで焦ってばたばたしても始まらない。どう転んでも、すべてはおおいなる善に向かって進んでいるのだ。
なんでもおなかを開けるのも苦労したらしく、いざ開けてみると、ほこりだらけ。一体私はマックちゃんに何を食わせていたんだか。中の中まで入り込んでいたらしく、それがショートしちゃったかも、とのこと。つまり私が埃ばっかり食わせたもんだから、消化不良を起こしちゃったわけだ。そりゃ、ストライキ起こすわな。「おまえ、ええかげんにせーよ!」と。
だんなも仕事中に車にはねられちゃったし(信じられんけど、無傷)、なんか私たちの中に今揺さぶりをかけられているかんじがする。
マックちゃんが無事に帰ってくるもこないも、すべて天にゆだねられているのだ。今ここで焦ってばたばたしても始まらない。どう転んでも、すべてはおおいなる善に向かって進んでいるのだ。