2009年8月19日水曜日

褒められちゃった野菜




田舎の母に畑で採れた野菜を送ってみた。(田舎に東京で作った野菜を送るって言うのも変なんだけど)カボチャ、キュウリ、ナス、ピーマン、トマト、モロヘイヤ、バジル。
うまいうまいと大喜び。キュウリなんか、皮むかずに食べられると言う。?皮むかずって、あなたずっと皮むいて食べていたの?

彼女はその昔、農協で働いていた事があって、キュウリやトマトには農薬がかかっていた事を知っていたのだと言う。農協さんが「いいですか〜、農薬は収穫の一週間前にやめとくんですよ〜」とさんざん呼びかけしているにもかかわらず、「いんや、ちっとでも見場のええもんが値が高く売れる」っちゅう人々がいて、2、3日前までかけつづけていたものだという。中にはかけすぎて自分に降りかかり、救急車で運ばれた人もいたのだと。
今の農家や農協さんはそんなことはないと思うが、その昔は農薬全盛期だったそうな。そんな実情をはたで見てきていた母は、ずっとキュウリの皮をはぎ続けていたのだ。今でも。

だけど、草ぼうぼうの中で草と一緒に育つ野菜はなぜか虫がつかない。先日バジルがあまりにも草の中で共存しているので、親切のつもりでまわりの草を刈ってやった。すると翌日には虫がバジルにわんさか来ていた。親切があだになってしまった。ほったらかし畑は草との兼ね合いがむずかしいのだ。刈りすぎてもいけないし、刈らなさすぎてもいけない。また、草なのか野菜なのかわからなくもなる。刈っている最中に「あっ!やっちまった!」なんてこともある。きのうは、いっしょにやっている仲間が草と間違えて蕎麦を刈ってしまった!このやろーって、首根っこつかんでぶるんぶるんふってやった(すんません)。


お盆だし、お墓のまわりの草を刈っていた。
ふと思う。私って刈ってばっかりだなあ...。これって破壊行為だよなあ..。破壊ばっかりしているなあ。木を刈って、草刈って、地面を掘り起こして....。よくかんがえたら私が自然の世界で何か作った事あるか?種、作った事があるか?葉っぱ、作った事があるか?.....ないじゃないか。

ニンゲンは何一つ作れないんだなあ。ただやっている行為としたら、種を一個地面に入れるだけ。その種が芽を出すのも出さないのも、自然の中で話し合われた結果、生命が活動しはじめるのだ。ニンゲンは、子供を作る事以外何一つ生命を生み出せていない。これだって、種を一個(?)入れただけだ。

地球という大地に種を入れる。女性という大地に種を入れる。あとはじっと自然界がそれを育んでくれるのを待つ。
ニンゲンは地球という大地にほうりなげられたやんちゃな子供なのかもしれない。もらったラジコンのオモチャをどうして動くのだあ?と分解して分解して破壊してしまうだけなのだ。あとは、自然という驚異的な叡智が、母が、それをまた再生してくれる。ニンゲンはただその仕組みがどうなっているのかを分解して知った気になっているだけなのだ。そして種一つ自分で作り直す事は出来ないのだ。

私は今までずっと絵という創造物を制作し続けてきたから、この世はニンゲンが創造できる世界だと思い込んでいた。しかし、自然界はまったくその逆だった。ニンゲンの肉体を創造している叡智、そしてその肉体を養っている植物。すべて何一つニンゲンが作る事は出来ないのだ。

勝手に石けんなし生活でわかってきた事は「あれもしなくていいんじゃないか?」「これもしなくていいんじゃないか?」ということだ。あれもこれもしなくてよかったなら、結局ニンゲンがあれもやったらいいんじゃないか?これもやったらいいんじゃないか?という事がいらなくなってくる。まるでちっちゃな子供があれこれ考えて色々お馬鹿な事をやっているようなもんだ。
今までニンゲンはずっとプラス思考(足す事ばかり)だったけど、このへんでマイナス思考(減らしていく方向)に行った方がいい気がする。しかしこの行為には勇気がいる。プラス思考の習慣はなかなか消えないものだ。


大地は叡智に満ちている。子供の次元で行われている行為を、ただじっと長い目で見守ってくれている偉大な存在がいる。
「しゃあねえなあ。また再生してやるか」と。

草を破壊しながら思う。これでいいのだ。ニンゲンが大人に成長する過程は、まず破壊から始まるに違いないのだ。何もせずに見ているだけじゃ知りえない、何かがあるのだ。と、子供の私は思うのであった。ちゃんちゃん。


絵:「あさがお」けんぽ表紙

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