2024年4月8日月曜日

自我はどちらかを悪者にする


 

昨日ダンナとケンカになった。

お互いがお互いの言い分を主張する。


キリがないので「一度持ち帰って」社内(心内)で検討する。


落ち着いて考えると、実はどっちも正しかった。


それぞれの立場や、生き方や、人生経路をかんがみると、

そう反応してしかるべき理由がある。

まあ、人によっちゃあ、「そこまで反応しなくても。。。」

というものがあるだろうが、

それでもその人(私とダンナ)にとっては、

「そこまで反応しなくてはならない」バックボーンがあるのだ。


だから実はみんな「正しい」。

と、考えて気がつく。


そういえば、ケンカしている時、

心は「どっちかが正しい」というところに収めようとしていた。


自分がなぜあんなことを言ったのか、

どうしてそうせざるを得なかったのかと、

心の中で必死でエアー演説して、自分を正当化しようとするのだ。


自我は、「どちらかが正しい。ということはもう片方が間違っている」

というところに落ち着きたい。


正当化しようとする思いは、必ず相手を悪者にする。

自分は無垢で相手は悪者。被害者と加害者。


でも正当化しようとするってことは、

実はどっかで自分が悪いんではないか?という恐れがある。

だからこそそれを隠蔽するために必死でエアー演説するのだ(笑)。


これぞ自我のトリック。

その正当化は、「世界はあるぞ、リアルだぞ。

ほら、こんなに重くずっしりとのしかかってるじゃないか。

早く自分を正当化しないと、悪者に襲われるぞ」と。





言い争いをしたことで、自我がいかに分離したがっているかが見えた。

私とあなたは分かれているという分離の概念。

自我はいつでも、どっちか、なのだ。


ところが「ひとつである」というところに立つと、どっちも、なのだ。


同じひとつの心の中に、正しいものと正しくないものが一緒にいることは不可能だ。

相手に罪を見れば、自分に罪があることを証明し、

相手に愛を見れば、自分にも愛があることを証しする。

だって同じなのだから。



目の前に展開する現象を使って、

その分離しているかに見えるものは、

ただの妄想だよと教えてくれている。


罪ではなく、愛に立ち返るために、

そういう状況をそっと提示してくれている。


怒ってもいい。

ケンカして言い争いしてもいい。


そのあとはスッと下がって、通り過ぎる。


幻想は幻想として消えていく。




絵:コージーミステリー表紙イラスト





2 件のコメント:

  1. で結果、仲直りしたのかな~~

    返信削除
  2. 麻里さん、

    コメントありがとう〜。
    もちろ〜ん!
    仲直りしたよ。

    返信削除