2022年10月26日水曜日

今日はダジャレが出なかった

 



「〇〇さんに聞いてみたらどうですか?」

そう言って電話を切った後、心が騒いだ。


あの人は私に相談してきたのに、私には答えが出せず、

もっとよくわかっている人のところに相談された方がいいとアドバイスをした。


それは適切な答えであったとも言えるが、

「私にはその能力がない」ということを自分で示した形にもなった。


自分の無能さをさばくという心の習慣がある私は、

即座に重苦しくなった。

この不快な気持ちで、もう一つのことに気づかされる。


「今、私は私に罪を見ようとしている」


自分の至らなさを見つけ、それをさばこうとするのだ。




「あの人、機嫌が悪い」


などという思いもまた人に罪を見ている。

こっちが気を使わないといけないなんて、疲れるわと。



私たちは絶えず外と内に罪を見ようとしている。

実はそれがこの世界を作り出す原動力になっている。


ただ理由もなく、そこにあらわれるのではない。

そのあらわれるものは、自分が作り出している。

自分がそこに罪を見たいと思ったから、そこにあらわれるのだ。


だから引き寄せの法則も、途中まではあっている。

見たいものをそこに表すのだから。

だけど深いところで本当に自分が思っているところを見れば、

私たちは幸せになんかなりたくないのだった(笑)。




その私が私に(人に)罪を見ようとしている。

作り出そうとしている。


作り出すということは、もともとそこにはないということ。

何もないところに、罪の形を生み出そうとしていた。


「兄弟がしていないことについて、彼を赦す」

というコースの意味不明な言葉はここに理由がある。


兄弟は何もやっていない。

私は、兄弟が(もちろん自分も)やっているかのごとく見たいのだった。


それはこの世界を実在させ続ける。

あの罪、この罪を見て、ある時は自分を無垢な人間としてみたがり、

ある時は自分をどうしようもない人間としてレッテルを張る。

そしてこの小さな限界のある人間という器の中で、恐れて暮らすことを欲しているのだ。


しかしそこに真実はない。

自分は、何かが勝手に作り出されたものに翻弄される被害者などではなく、

自分自身が作ったものとして、その責任においてそれを手放すことができる。


私は自分の心の中にじっと入って、自分が自分に見たがっている罪という形を

本当は実在していないものとして赦した。


その時、形になろうとしているものの後ろに、何もないものを一瞬垣間見た。


すーっ。。。。


さっきまでの重苦しい自分への罪の意識が消えていった。





この形の世界の中で、その形が消えることはない。

例えば目の前の一冊の本が、一瞬で消えることなどないように。


しかし心の中の重苦しさは、一瞬で消える。

このことにはいつも驚かされる。


心がいかに私たちの世界を占めているのかに気づく。


形がこの世界を覆っているわけではないのだ。

心が、つまり考えが、この世界を埋め尽くしているのだ。




今日はダジャレが出なかった。

(そこ!?)




絵:「健康と生活」表紙イラスト/ダンス



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