2022年9月22日木曜日

心をロックオン!


 

昨日、人の相談事を聞いた。

本当は相談には乗りたくはなかった。


私は人を救えない。

それは過去に散々人を救おうとして、全く救えなかったからだ。


そしてコースを通して、救われるべき存在などいないことを知る。


自分とは違う他人。私とは違う、悩みを抱えた他人。

そう思っているが、実はその他人も自分と同じ一つの心。。。


頭ではわかっているが、

いざそれを実践できるかというとそう簡単にはいかない。

だから心の訓練。



目の前にいる兄弟を悩める欠乏感のある存在としてみるならば、

私もまた自分自身を悩める欠乏感のある存在としてみることになる。


しかし兄弟を神聖な存在としてみるならば、

私もまた神聖なのだ。


この見方に言葉はいらない。

ただそこにいて、彼を神聖な存在、

光り輝く存在としてみることができるかどうか。


しかし具体的な話を聞くうちに、

どんどん欠乏感のある存在として話をしてしまう自分がいた。


「あなたにはこういう問題があって、

その問題を解決するには、これこれこういうやり方で。。。。」


ああ、ダメだ。

これじゃ今までと同じだ。。。





今回、彼と会うことは私の中の何かを解放することだと気がついていた。

私の中の罪の思いを終わらせるために来てくれていることを。


そして彼と会う前、

私の中の罪だと思っていたものが消えていく解放を味わった。


で、彼と会った。

だが結果がこれだ。


相変わらず人は救えない。。。



いや待てよ。


私が救う必要はないのではないか。


彼自身が自分を救うのだ。

そして神聖である彼はすでに救われている。


どこを見るのか。


この世界にフォーカスすると、救われていない彼を見る。

水平の世界にはそう見える。


しかし垂直な方向、

つまり神聖さの中から見ると、彼はとっくに救われている。


それを思い出すことだ。

私の心をそこにロックオンすることだ。


馬鹿げてる?

でも見たいものを見るのだから、

ほおっておいたら水平線上でしか見ない。
(つまり自我的な視点)

しかしそれに気づくことで、

どこから見るのか自分で決められる。



私が彼を「問題ある人」と見る限り、彼は問題ある人となるのではなかったか。

では逆もしかり。


私が彼を神聖なる存在としてみることで、彼もまたそれを思い出すのだ。


だって心はひとつなのだから。




絵:「ススキと高尾山」




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