2022年5月4日水曜日

昔盗賊だった


 

私が見ているものについての責任は、私自身にある。


見ているとは、解釈。


その解釈の方向は、目の前の光景を誰と見るかにかかっている。


自我か、聖霊か。

恐れか、愛か。



この頃ジャンクメールが多い。

その中でアマゾンの注文メールとそっくりなのがきた。

知らないひとあての注文。

ゾッとする。


確認すると、そんなものはなかった。



この恐れの中に何があるのかを見ると、

「悪意のある奴に身ぐるみはがされる」

という信念があった。


だいたいひた隠している信念は、漫画みたいなノリが多い。

露頭に迷うとか、身ぐるみはがされるとか。


身ぐるみはがされるって、どんな状態や。盗賊か!

どっから持ってきたんや!

と、旦那に話す。


「その信念があるってことは、それをどっかでやったことでもあるんか?」


じっと考える。

そやな。そういうことした私がおるから、そんな信念があるんかな。。

うん。。。確かにかすかに記憶がある。

北欧の海をうろうろしてたバイキングだったこともあるやろし、

アラブの砂漠の中で盗賊やったこともある。。。(ほんまか?)


ってか、こんな信念誰でも持ってるわ!

そしたらみんな盗賊や海賊やった過去があるんや(爆)。


みんなが盗賊やったかどうかはさておき(置いとくんか)、


悪意を持った奴がいるという信念は、

愛によって思い起こされるものではない。

恐れと分離の信念によって信じられたものだ。


その見たものへの解釈は、間違いなく自我とともに解釈したもの。

この信念を持っている限り、同じ出来事が起こったら、また同じように反応するだけだ。


恐れはそれを実在化する。

自我はそれを使う。

自我の思考システムは、常に恐れを引き起こす。

悲観、非難、攻撃、全て恐れ。


私はこの残酷な世界で、兄弟の身ぐるみはがしてでも生き抜いていかねばならないのだ!

というサバイバルな心。

取られたら、取り返せ~~~っ!と。


その恐れをずっと感じていたいか?私。

もちろん、ノーだ。


この信念を聖霊にお渡しする。

「もういりません。訂正をお願いします」



ワプニックさんの動画を見て、とても感じるところがあった。


私たちはあらゆることに、常に瞬時に自我的な解釈をしている。


その解釈は恐れを伴うからすぐわかる。

それはまさにこの世界を実在させ、重くのしかかるものだ。


今まで、自我を選んでいたとさえ思わず勝手に起こしていた自動反応が、

私は自我を選んでいたのだと知る。

自我でしか、見ることを知らなかったと知る。


その今までの見方を、別の見方でみたいと願うことは、

見方の方向転換をさせる。


外に罪を見ることは、自分に罪を見ることと同じ。

しかし外に無垢性を見る事は、自分に無罪を見ることになる。

心の作用は全く同じように起こる。





昔盗賊だった私は、神の愛を求めて暴れていたんだ。

モノを得ることで、神を得られると。

愛を求めていたんだ。


でもそれはずっとここにあった。

ないという思いが、私を暴れさせていただけだったんだ。


私はそれを選ばない。もうそれを望まない。

そんな自分を赦す。

私は別の見方を選ぶ。



重くのしかかっていたこの世界が、

軽くなっていく。




絵:ミステリー表紙イラスト


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