2022年4月7日木曜日

ある朝見たもの


 

ある朝、まどろみながら映像を見た。


何かをやっているシーン。

その中で現れては消える、思考、感情、出来事。

次から次へと変化している。


それを見ている私がいた。

至福が私を包み込み、私は感動に打ち震えていた。


すべては夢幻であるという教えは、ほんとうだったんだ。。。




さて、私が見た映像とはこういうもの。

スクリーンに映し出された映像。

その手前にフィルム。

それを見ている一つの目/意識。

そしてその背後に巨大な光があった。


この世界はフィルムから映し出された映像だった。

その映し出された映像の一つが私と言う主人公。

その中で私は喜び、悲しみ、怒り、恐れた。


だが主人公の私は、本当の私ではなかった。

フィルムから映し出された人物を

私だと思っていたのだった。


その登場人物のことを追っている一つの目/意識が

フィルムを通して登場人物の物語に入っていたのだ。


その映像は、背後に巨大な光があり、

その光のおかげでフィルムを映写できていたのだった。


その目/意識である私は、スクリーンに映し出された主人公の私を愛おしく眺めていた。

スクリーン上の出来事には全く影響されず、至福とともに主人公の私を眺めていたのだ。







まどろみから目が覚めて思う。

そのフィルムはなぜそこにあるのか。

なぜ投影せねばならなかったのか。


そのフィルムは、スクリーンに映像を映し出す元。

それは実は罪悪感でできたフィルムだった。



神から離れてみたらどうなるんだろう?

神のように自分も世界を作ってみたい!


そう思った瞬間に、神の子はものすごい罪悪感を感じた。

一体なんてことを思いついてしまったのか!

その罪の意識が、ものすごい力を発揮して、もう一つの世界を作出した。

(それがこの宇宙の始まりと言われている。)


その恐れの思いがこのフィルムを作った。

その中に逃げ込み、神を忘れようとした。

だからこの世界は恐れと狂気に満ちている。


その目/意識は、神とは反対の方向を向いている。

光の側面にちょこんとくっついた小さな思い、神への小さな抵抗。

これが分離の意識の始まりだった。



その目の位置に立った時、確かに私は至福を感じた。

苦しみも悲しみも、何の影響も受けない私がいた。


しかしそれでもそこに幻影はある。

幻影を幻影としてみているだけでは、本当の安らぎはないと気づいた。



心の中にある恐れ、罪悪感が消えていくほどに、

そのフィルムはだんだん薄らいでいき、

幻夢は辛く悲しい夢ではなく、幸せな夢に変わり、

やがてそのフィルムも消える。


その時、その背後の光の中に、神が引っ張り上げてくれるのだ。


そんな思いを感じた。

このイラストはその時見たものを映像にしてみた。




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