2021年6月30日水曜日

自由と不自由

 



「対等」という言葉の意味を知り始めて、自分がいかに人間関係の中で、恐れの中にいるのかを知ることになった。


人の上に、肩書きや階級のようなものをかぶせ、その目でその人を見る。

お役人やお医者さんやアートディレクターという肩書きに、体が一瞬ひるむ自分を見た。


警察官にはそれほどでもない。父が警官だったからだ。単に慣れているだけ。どっちかというと、食ってかかりたい(笑)。


だがこれも同じ穴のムジナ。

どちらかに力があって、それを奪うか奪われるかという戦いになる。自分が上に立とうとするか、下に立とうとするかで、全く対等ではない。




肩書きにひるみ、自分を下に置く瞬間、みょうに居心地が悪くなる。

それは相手に力を与えたからだ。


相手に力を与えるということは、自分には力がないと信じたことになる。そうすると自由を奪われるような、なんとも言えない嫌な気分になる。


今度は逆に「自分の方が有利だ。上だ。。。」と思わせる状況や人たちがいるとする。

すると途端に自分には力があって、こいつらをどうにかしてやろう、という気分になる。



つまり力がこちら側にあると思った瞬間、こちら側に自由があり、この目の前の人を自分がコントロールする力があると信じているのだ。


だがその状況はいつでもころっと反転する。コントロールしているところに自分より上の人間がやってくると、途端に自分を下にする。「あっ、どーもすいません。。。」と下手に出る。


つまり「力」は一つしかなく、常にどっちかがもつことになる。

これが上下の関係。上に立つものは下のものをコントロールし、下になるこのはコントロールされる。

不自由と自由は、どっちが力を持つかにかかっているのだ。


不自由はいつでも転がっている。言い換えれば、いつでも不自由になれるということだ。

ここにはまったく対等性はない。そしてそこにある自由は本当の自由でもない。


だが肩書きが上の方に見える人も、同じ人間。家ではおかーちゃんの尻に敷かれているかもしれない。

娘に「きもっ!」とか「ウザイ」とか言われて、ガン無視されているかもしれない(もう古い言葉?)




だから一瞬肩書きにひるんだ自分を許し、対等であることを意識する。

無意識に自分を下に置こうとしている自分に気がつき、やめる。

もちろん上にも置かない。まったく同じ立ち位置に立つことで、途端に自由になれる。


そのことを教えてくれたのは、うちの町会長だった。

会長という役柄上、無意識に自分を高みに置こうとするものだ。ところが彼は自分を上に置かない。もちろん下にも置かない。常に対等な位置にいる。だから私も自然と同じところに立つことになった。対等だから、言いたいことはずけずけいう。それを許してくれる人だった。



またある人は、自分を常に上に置こうとしていた。彼の虚勢は恐れから来ていた。

よく観察していると、自分は力がないかもしれないという密かな恐れがあり、それを振り払うように大きく出る。一見力があるようにみえるが、その心はとても繊細だった。

だから彼といると自然と私は自分を下においてしまい、常に話を聴く側に自分を立たせていた。それがなんとも不自由で心地悪かった。


だがそれは私がその位置に自分を置いたのだ。

下にいた方が無難だという防衛本能からだった。




どちらかが、上にも下にも立たずにいると、相手もどちらにも立てなくなる。

その瞬間、力関係というものが消え失せて、お互いが自由な関係でいられる。


それが本当の対等と言うものなのだろう。






絵:新書表紙イラスト/戦国名合戦:武田信玄VS上杉謙信




2 件のコメント:

  1. すてきな内容ですね!愛は力を必要としない。力、権限、不平等、見極める作業すら不必要だからエネルギーの節約ができます。すべてを維持するには力が必要ですが、愛は力をいれることも、入れた力を制御することも不必要、、、すばらしい一日をおくってくださいねー!

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  2. ラクシュミさん、
    おお。こっちにもコメントを入れてくれたのですね!
    ありがとうございますーっ!

    名言。いただきました。
    愛は力を必要としない。

    くーっ。
    カッケー!

    不平等を見極める作業すら、エネルギーの消耗。。。全く必要ないですね。
    自我の維持には力が要ります。
    愛は何一つ力を必要としない。

    ありがとうございます。

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