2021年1月20日水曜日

「はじめに言葉ありき」

 


「はじめに言葉ありき」


言葉があって、この世界が出来上がった。

私たちはそれを良きこととして受け取っている。


言葉とは名前だ。

つくしという名前があり、〇〇ちゃんという名前がある。

その瞬間分離が起こる。

〇〇ちゃんと私は違う人になり、心の中も違う人。考えも違う人。収入も肩書きも過去も全く違う人になる。



コップちゃんとテーブルちゃんは同じじゃない。それは違うからだ。


コップちゃんはテーブルちゃんを「私とちがーう」と否定しないかぎり、コップちゃんでいられない。

テーブルちゃんもまた、コップちゃんを否定しないかぎり、テーブルちゃんとして独立できないのだ。

つまり互いに否定し合うことによって、それぞれが独立できる、という仕組みになっている。

分離とは、互いに否定し合うことなのだ。
(この話はハレルヤさんの講義で聞いたお話)


つくしちゃんがいるのは、〇〇ちゃんを否定するから存在する。





この世は言葉だらけだ。

ある一つの名前がつけられた瞬間、その存在が立ち上がり始める。

それまで存在しなかったものが、形を持って存在し始める。

人はそれを喜んだり、悲しんだり、恐れたりする。


言葉がこの世界を作っている。

それを楽しめもすれば、悲しめもする。


つくしちゃんは、〇〇ちゃんと違うことで、悲しみが増える。

どう違うか、言葉によってその違いを味わう。


言葉は、感情にも名前をつける。

この感情はこういう名前、この感情はこういう名前、そしてこの名前の感情は、嫌うべきもので、こっちのは好きになるべき感情、云々。。。


名前によっては嫌うべき名前もある。突き放したい名前もある。

そうかと思えば、最初は好きだった名前も、だんだん嫌いになっていったりもする。





いつの間にか頭の中は言葉だらけ。

つけられた名前、それに対する感情にも名前、それをどうにかしようとする行為にも名前、その名前たちに解釈がつけられ、判断され、解決するために、多大な言葉を使う。。。


そうやってこの世界は続いていく。

さもあるがごとく。


言葉は分離を生み、互いを否定し合いながら、折り合いをつけようと躍起になる。


分離のままでいたいなら、なぜそのまま幸せではないのだ?

分離しているだけでいいではないか。

なぜこうも苦しい?


本当は一つになりたいのではないだろうか。

その一つになりたい思いが、折り合いをつけようと躍起にさせる。

けれども分離して独立したいという思いと、一つになりたいという思いは、融合することはできない。





そこで最初に戻る。

言葉がこの世界を作ったのなら、言葉がなかった時はあったのか?


言葉によってこの世界が作られる、その元の何かはあったのか。

一つになりたいというその衝動はどこから来ている?




頭の中からあらゆる言葉が消えた時、静けさが戻る。

戻るという感覚は、それをどこかで知っていたからだ。


その静けさの中に、安堵がある。

安堵の中に、暖かさがある。

暖かさの中に、満ちているものがある。

満ちているものの中に、喜びがある。


喜びの中に、


かつて知っていた愛があった。


それが本当の名前。


神の言葉。






絵:「エストニア」/健康と生活表紙イラスト

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