2020年11月19日木曜日

光で見る その2

 

自然を光で見る実験をしたのち、今度は人を光で見てみる。


目の前のダンナを見てみる。。。くっ、、、できない。。。

力尽くで見てみる。。。。

うー。。全然できない。。。



そうなのだ。

胸のあたりに光をイメージして。。。とやるが、

目の前のダンナの顔に意識が向けられて、光で見るどころの騒ぎではない。


しょうがないから目をつぶってイメージしてみる。

目の前にいないと、ちょっとだけ光でイメージできたw



それにしても、木や山を光で見るのと、どうしてこうも違うのだろう。。。?


抵抗している。

心のどっかで「お前なんか、光で見てやるもんか」

という、ダンナへの大きな抵抗に気づく。


光で見るとは神聖なことなのかもしれない。

日頃いろんな思いがあるダンナを、そんな綺麗なもんの中にいれてやりたくねえ!

という思いがあったのだ。


その証拠に、遠くで道を歩いている関係ない人には光で見ることができる。

でも目の前に来ると、「うっ。。」と、微妙に抵抗している。


私の中にある自然への思いと、人間への思いの違いを自覚させてもらった。






その日もコタツを挟んで、ダンナを目の前に光実験に悪戦苦闘していた時、

不意に彼の胸のあたりにぽっかり穴が空いて、その向こうから光が差しているというビジョンを見た。

すると彼の後ろから後光が見えた。


え?

この映像どっかでみたことが。。。


背中に光を背負った観音様の仏像。

法隆寺で見た、ひょろっとスレンダーな、私の大好きな百済観音を思い出した。


そうだ。

仏教彫刻の背中に後光を背負ったあのお姿は、こういうことだったのか。


私たちは、目の前の人の形を捉えている。

でもそれは肉眼で捉えているからのこと。

本当は私たちは光そのものなのではないか。

それを霊視した人たちがいて、それを彫刻したのだとしたら。。。



光を見るという実験をすると、だんだんもう一つの世界がわかってくる。

目の前に見えている世界だけが世界じゃないということを。


これは仮の世界だ。仮想現実だ。

私が私という肉体を持った気になって、

その肉眼で、私と似たような形の生き物を見ているのだ。



目の前の母親がハリボテに見えていた、小さい頃の光景を思い出した。

それは事実を見ていたのかもしれない。

本当は母の後ろに光があるのだが、それを遮るように、私がハリボテの母親像を作った。

それは自我としてのわたしの恐れが作り上げた影だった。

その影は今もこの世界に投影されている。


だが光をどんどん思い出していくうちに、

それは自分が作り上げた煙幕だということに気づき始める。



ダンナに光を、お山に光を見る。


それは延長されて私も光に包まれ、

互いの境界線は消え去り、


全く一つの眩いばかりの光になった。










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