2018年11月29日木曜日

私が影響を受けている人や本



この世の苦悩は、外にあるんじゃない、心の中の何かが私の人生に影響を与えていると気がついてから、内側の旅が始まった。


そうした中で、津留さんや、安達さんという存在を知り、自分の中の観念をさぐりはじめ、そして今奇跡講座にめぐりあった。


宗教も、新興宗教も好きじゃない。
セミナーも通わない。
ひたすら本とネットで理解を深め、実践していった。



基本的にあまり自分が何に影響を受けて学んでいるかを書きたくない。
今この人やこの本に夢中であっても、明日は全然違う本に夢中になる。そんな私。いい加減に人に勧められない。勧めた瞬間、もう私はそこにはいなかったりする。

どんどん移動する旅の途中で、ここは押えどころだなあと感じているのが、津留さんの考え方だった。自分がどうしていら立つのか、自分がどうして不安になるのか、心の動きをクリアに解き明かしてくれた人だ。

残念ながら津留さんは亡くなられたが、その考え方をベースに噛み砕き、それをあらたな独自の方法で受け継いでらっしゃる方が、安達さんだと思う。
安達さん風にいうと、「この人間業界をどうお気楽に生きていけるか」を教えてくれている。私もずいぶん楽にさせてもらった。



ふたりのメソッドに、観念浄化という方法がある。私たちの中にある膨大な量の観念をひとつひとつ意識化し、それを消していくというものだ。
これの良い所は、自分の感情をはっきりと見ることが出来ることだ。

自分がどんな観念をにぎっているかを知る方法は、ネガティブな感情に気がつくことだ。

イラだっているモノには必ず原因がある。その原因とは言葉。言葉とはすなわち、観念のこと。善悪の観念。その善悪の観念にふりまわされている私たち。
その観念からの解放は、津留さん流にいくと、ただそこを観るだけである。

津留さんにはいくつかのメソッドがあるが、わたしはいろんなジェスチャーをするのが好きではない。なのでただじっとそこを観るという方法に落ち着いた。

観て、観て、見続けるうちに、その観念の元になったものが、「あ〜〜!あのときあの人が言った言葉だ!」とか思いだされる時もあれば、「親にいっつもいわれてたことだ」と納得することもある。または、映像が現れ、一瞬の内に消える時もある。
そして何も起こらないときもある。(これが大抵だがw)

でもはっきりとわかることは、やったあとには何もモヤモヤしたものがなくなっていることだ。さっきまでのあのモヤモヤやイライラはどこへ行った?と、おかしくなるくらい消えているのだ。




そんな観念浄化をするうちに、あるブログを読んで、私は思いだした。何年か前に買った、高くて分厚い紺色の本、奇跡講座テキスト編。

この本を買った人はたいてい、一瞬読んで本棚にしまうか、ドアのストッパーに使うらしい(笑)。私は本棚の肥やしにしていた。
とても難解で、ほとんどの人が途中で放り投げてしまう本。。。。

この本は「テキスト編」「ワークブック編」「教師のためのマニュアル編」という三部作になって構成されている。これらがどんないきさつで書かれたかは、ここでは書ききれないので、どこかで探してほしい。



この本はとんでもない本だった。
今までの私たちの考え方生き方を、まったくの逆向きに変えようとする恐ろしい本だ。
私は今まで観念浄化、つまり自我の考え方を消化、および浄化して、この世を楽に生きようとしてきた。だがそれはあくまで、この世界は存在するという前提だった。

よく覚者がいう、「この世は幻」「この世は夢」という言葉。
これは比喩ではなく真実だというのがこの本。つまりこの世は存在していないと。


私は小さいとき感じていたことが、はっきり目の前に、大人の意識の、大人の言葉で書かれていたことに衝撃を受けた。
あれは子供だったからこそ、そう思っていただけではなかったのか!と。
次々解き明かされていく幼かったときもっていた自分の感覚。
あれは間違いではなかった。あれも勘違いではなかった。そしてあのことも。。。



私はかなり幼いときから、この世の理不尽さをあじわった。
この社会の残酷さの洗礼を受けた。

なんという世界なんだ?
どうして私はこんな所にいる?
こんな世界の中でたった一人で生きていかなければならないのかという絶望の中で過ごしていた。

しだいにこの世の生き方を身につけ、それなりに社会人のような顔をして生きてきた。それでも心はずっと「この世の謎」に挑んで旅をしていたのだ。
それが50年後に、今やっと紐解けはじめている。


津留さんの観念を観るやり方はとても私の役に立った。奇跡講座がいう、人間がもつ隠れた罪悪感の巨大な塊を、早々と意識化させてくれた。

観ることによって、そこに光を当てるという津留さんのやり方と、奇跡講座がいう「赦す」というあり方は、どこか似ている気がする。

一方は、観念があるといい、そこに視線という光線をあてて影を消す。
もうひとつは、もともとないものとして「赦す」という。
ちがうけれど、何かが似ている。

その両方を使って、方向転換をしようとしている私。
自分の中にある巨大な罪悪感を完全に消してしまうには、いったいどのくらいの時間がかかるのだろう。。。それでも何かが背後で動いているのを感じる。


奇跡講座はいう。
解放への道はひとつじゃない。
この道もまた、そのひとつにすぎない。

私が通ってきた道は、私独自の道で解放へと向かうのかもしれない。

長くなりました~。




絵:「天狗舞い」




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