2018年8月2日木曜日

雑草のとらえかた


家の外装工事が終って、久しぶりに大家さんのお母様が様子を見に来られた。

彼女は草が気になる様子。ぶちぶちと生えて来た草をちぎっていく。

「おかあさん、この外壁は、こうやったのよ、、」
と娘さんが説明するも母は、
「ここはだめ、こうしなきゃ。。」
と、草や木の事に意識がむいて、片っ端から雑草を引っこ抜いていく。

その前日、わたしは彼女が引き抜いていくそのヤブガラシを美しく眺めていた。


同じ植物を見るのでも、それをいけないもの、醜いものととらえる視点もあれば、
美しく、たのもしいものとしてとらえる視点もある。
どっちが正しいわけじゃない。存在は中立だ。
人の立ち位置によって、解釈が変わっていくだけだ。



野良仕事の合間、木陰で休んで畑を眺める。
父の葬儀や雑用で忙しく、今年は畑に手がつけられていない。
そのあいだに草が旺盛に広がった。オリーブの木や高く伸びた篠竹にくずの葉っぱがおおいかぶさり、畑はジャングルになっていた。

だがそれが美しい。葉のひとつひとつ。枝の一本一本。それぞれが美しい。実際、彼らを刈るとなるとたいへんだがそれでも美しい。

6月に蒔いた枝豆が、イネ科の植物のいきおいに押されている。根元から刈り、枝豆の足元に置く。イネ科の植物が生えた土はとても柔らかい。心地よい感触が足の裏に伝わる。


花だけでなく、葉も、枝も、つたも、木も美しい。それが植物。
畑で、庭で、道路の端っこで、彼等の姿を見てはっとする。それだけで心がおどる。
「これを絵で表現できるのか?」
ひとり心に問う。
今は答えられない。彼らの存在を越えるものは作れそうにない。



私たちは環境の生き物。うまれた時代、そだった環境によって、価値観がまるで違う。
大家さんのお母様は、草は取るもので、観照するものではない。草に対して入ってくる情報はそれ以上にはないだろう。
わたしはすこし違った環境に育った。それだけの違いだ。


雑草はふしぎな位置にいる。
人間に嫌われはするが、じつは大地にとって、野菜にとって、虫にとって、動物にとって、すべてにとって必要である。

むしろ人間こそが、この地球にとって必要でないのかもしれない(笑)。

この地球にとって違和感がある存在が、あれがいい、これいらない、などと文句を言う。


あ。そもそも文句を言うのは、人間種ぐらいなもんか。




2 件のコメント:

  1. 優しい絵だなぁと感じました。
    好きです
    壁紙に戴きました。

    通勤の際通る堤防に たくさんの野草が生えています。
    ゆっくり目にチャリを漕ぎながら毎回見とれてますよ

    先々月は堤防の野草達が 市の職員らしき人達に一斉に刈られてました。
    『あああぁ・・・ぐえぇ・・・』
    と悲しくなる一方で
    もしあれが自分の仕事なら刈りまくるな、なんだかんだ言っても とも感じました。


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  2. ゆうさん、ありがとうございます。

    あなたの野草の美しさを感じる感性がすてきです。
    そうはいっても、置かれた立場によって、行為は変わっていくものです。

    でもその両方の意識を持つ事が大事だと思います。
    それはいろんな所に応用がきくものです。

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