2018年6月13日水曜日

京都の旅 その2



薄暗い部屋の中に、長谷川等伯と長谷川久蔵の国宝はあった。

パンフレットに絢爛豪華に印刷されているものとはまったくちがう、金箔がその輝きを時の流れとともに変化させていった、私好みのものだった。

それはミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会で見たダヴィンチの「最後の晩餐」を彷彿とさせた。
描かれた当初はさぞかし美しい絵であったろうその壁画は、食堂にあった時代に湿気やすす、馬小屋に使用されたおりの臭気や排泄物、その他洪水や空爆による損傷でひどく風化していったようだ。実際この目で見ると、教科書で見た絵とはまるでちがい、真っ暗でほとんど何の絵かわからないほどだった。
それがなんとも言えない感触をこちら側にあたえ、ずっと見入っていたものだった。


雨のせいか平日のせいか、空間には私ひとり。あの時の感覚を思いだしながら、ゆっくりひとりぜいたくに障壁画を堪能した。
松のうねり、枝のうねり、草の流れ、花の弾け。いろんな楽器がそれぞれのリズムを奏でながら大きなオーケストラの楽曲を聴くように見る。からだが勝手に松のうねりにあわせていく。私は音のない音を聴いていた。



「今、智積院を出た。ここからどう行くの?」
細く長くつながっている京都の知人に連絡をする。久しぶりに電話したのは、出発の前夜だった。
「そこ、東大路通りやろ?タクシーに乗って、まーっすぐ北に上がってもろて」
そんな私を軽々と受け入れてくれる人物。
「突き当たりのコンビニで待っててや」
タクシー代を払い終えて降りると、そこににこにこする彼がいた。
「よおきたね」
「ごめーん。急に勝手なことお願いして」
「かまへんかまへん。こっちはいつでもええで」

東山にある小さな小料理屋さんでハモの天ぷらをご馳走になり、その足ですぐ近くにある京都大学のサロンで、京大生のような顔をしてお茶をした。どう見てもちがうけど。

一見人の良さそうな彼だが、じつは鋭い眼力を持っている。二年前に大阪で個展を開いたとき、私の作品を見た彼に一撃を食らわされた。
「作者の意図が丸見えや」

あの言葉で、はじめて私のイラストレーターとしての職業の短所が、外側から意識化された。クライアントの要望が大前提の仕事。同じ絵を描くといっても、最初にクライアントありきのイラストレーターと、内側からわき上がるものをつむいでいく絵描きとはまるで出発点がちがう。
クライアントの要望の全体像を最初に頭に描いて、それを目標に描くイラストの仕事。30年間培われた、クライアントの要望ありきの絵描きは、その染み付いた習慣をそう簡単に落とせそうにない。

彼もまたその昔写植をやり、今はデザイナーである。彼の表現は小さな豆本を作ること。活版印刷や製本など、一からすべて自分で作る。その世界にうとい私は彼の世界感をどう見ていいかわからない。しかし活版印刷独自の肌触りやノスタルジックな空気感がなんともいえない。言葉の内容と手に取った豆本の触感が一緒くたに手の中で表現されている。彼の「作品」を手でちょくせつ触るその恐ろしさとはかなさに、おっかなびっくりになる。

「これがなかなか外せへんのや」
コーヒーをすすりながらいう。

目が細いせいか、いつも笑っているように見える。にこにこしながら、その眼の奥に物事をするどく読み解くワザを秘めている。
ぱっと見、白い口ひげを生やしてめがねをかけた初老の彼は、京大の教授にみえないこともない。老子の道徳経の講義でも開いていそうな風貌だ。いやむしろ、現代の老子?

クライアントありきの世界は、彼もまた同じ。私の表現上の葛藤は、彼の中では重々承知のうえでのことだった。その上でひょうひょうと自分の表現を生きる。クセを外せない自分。葛藤もまた好し。それもまた表現。

彼のにこにこはすごみになり、言葉にならない言葉を私に伝えてきた。



絵:紙絵/樹


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