2018年4月18日水曜日

父の葬儀その2



父は葬儀場から、お金の準備まで用意してくれていた。

私といえば、会場のお花選び、棺選び、骨壺選びなどのもろもろの葬儀のための道具の選択、父のスナップ写真、新聞広告に出す内容のチェック、お香典返しに添える言葉、弔電を読む人の選択や順番、香典の管理、その他いろいろの細かい作業を葬儀社の方にうながされるままにやっていただけだった。

亡くなってから葬式会場を探す人たちから比べれば、はるかに楽な作業にちがいない。どこまで行っても、父の手際の良さに感心、ほれぼれする。




こんな人だったっけ?
と子供心に思う。

幼かった私にとって、父はあまりにもしつけの厳し過ぎる、恐ろしい人だった。

お膳の上の箸がそろっていない、新聞を足で踏むなどの私の失敗を見つけると、間髪入れず父の鉄拳が飛んで来た。固いグーの手が私の顔面にめりこむ。岩のような父の圧倒的な破壊力に、幼い私は後ろに吹っ飛んだ。よけようものなら、倍になってよけいに殴られる。よけられないと思った私は、父が向かってくるその様子をただじっと受けとめ続けた。

お酒を飲んで帰ってくると家で暴れる。投げたり壊したりしたので、電化製品はどこかがかならずへこんでいる。
照明器具をバットで殴って、ガラスがバラバラと布団の上に落ちる様子を見ながら、母は私をかばいこう言った。
「お父さんは、あんなことするけれど、本当はいい人なのよ」
目の前で展開する彼の行為と、母のいい人だという言葉が、私の中で分裂した。


しかしそういう父もよくよく見ていると、ただ寂しかったのだと言うことがわかってくる。

私はよく父の晩酌の相手をした。そうすると、とても機嫌が良いのに気がつく。
父は父として、自身の人生にたくさんの苦悩をかかえていた。それを受け止めてくれる誰かを必要としていただけなのだ。

通夜の夜、父の親戚の人たちと話をした。父の幼年期の話しもまた壮絶なものだった。
父はただ祖父からもらった激しいしつけをやっただけだ。

だが残念なことに、受ける側がもらう傷は深い。
私の中に残ったトラウマは父に謝ってもらって取れるものではない。これは自分自身で解消していくものだ。そう簡単にはいかないだろう。

しかしこうやって受け継がれていくその家のやり方も、私の代で消えていく。
それがゆいいつの救いだ。


今回、お通夜や葬式に来てくれる人々が、口々に私に言う。
「お父さまには、本当にお世話になった」と。
父がどれだけたくさんの人の面倒を見、真摯になって相談に乗っていたかを知ることになった。

私は娘の視点からでしか、父を見ていなかった。父と一緒に生活をした18年間で味わったものでしか、父を判断して来なかった。

それがだんだん溶けはじめたのは、父の死が近づいてきはじめてからだ。

何度かの手術の度ごとに帰って、父と会話をする。回を重ねるごとに、私の中で何かが溶けはじめる。それは一個一個、音もなく自然に溶けはじめるなにかだ。
病気や手術や入院することは縁起でもないことなのだけれども、そのおかげで私は父に近づいていった。

いつのまにか、殴られたことも恨みにも怒りにもなっていなかった。
あのとき、どうしようもなくそうなったこと、そしてそれはすでに過去ものであること。父を責める気持ちもなにもなかった。
病床にいる父に
「とーちゃん、わたしはつらかったよ」
と、伝える必要も感じなかった。
時には冗談を言い合って、時にはただじっと2人だけで、何も言わずにただいる時間がすてきだった。

そして今、こうして父とかかわりのあった人々に触れて、葬儀の準備をしている。
それは二度とやって来ない貴重な時間だとしずかに受けとめていた。



写真:父と5ヶ月の私。





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