2017年11月8日水曜日

自我のトリセツ


あったかいお風呂につかる。

カラダを感じる。心臓がばくばくしていてるのを感じる。皮膚がぴりぴりとしているのを感じる。体全体に圧迫を感じる。と同時にちょっぴりの浮遊感。

皮膚とお湯との接触部分をかんじてみる。何かわからないけど、何かが何かに触れている感じはする。。。と、おもっていたら、
「あれ?熱は?あったかいはずなんだけど。。。。」
そこに熱はなかった。
あったかい、さむい、は、観念かのかもしれないとおもった。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とゆーではないか。

んで、感覚の中にいると、感覚って微妙なもんなんやなあ~とおもう。そのわずかななにかに、「熱い」という言葉を付けたとたん、そこに温度が生じる。「寒い」もそうだ。「寒い寒い」って、からだを震わせたら、もっと寒くなる。

私たちはこの微妙な感覚にアレコレ名前をつけた。その名前にいいとか悪いとか判断も付けた。そうやって、たくさんの言葉が私たちに生まれた。

あたまの中で動いているものは、言葉だ。
お風呂につかりながら、今日はああだったと思いだし、にっくきあいつの事を思いだし、明日どうしてやろうと策を練る。
はたまたこれから私はどうなるんだろう。。。と未来を心配する。

今、私はあったかいお風呂につかっているのに、心はここにいない。怒りや不安や嫉妬や焦りや悲しみなどの、不幸の中にいる。
今、そこに不幸があるのか?ない。なのに、心だけが不幸だ。

それが思考のしわざ。
私たちは考えの中に没頭する。
不幸を味わう。


その思考の仕組みを懇切丁寧に解き明かしてくれているブログがある。

自我、つまり思考の塊は、私たちにいろんな影響を与える。人生をドラマチックにするのは自我のおかげだ。

その自我は私たちの一部で、けして悪いものではないが、その取り扱い方をあまり自覚した事がないのではないだろうか。
そもそも学校でそんなものの扱い方を習った覚えはないし、ましてや親に教わった事もない。

思考は自分の中から出て来る事なので、自分が考えたと思うし、その思考は自分の味方だと思っているので、その扱い方などと言うことは考えた事もないのかもしれない。

だけどこれだけ精神的な問題が浮上して来ている今、私たちは自分の中でおこっていることが、いったいなんなのか、調べてみる必要があるように思う。

心の時代と言われてずいぶんたつが、今のところ、その共感だけにスポットが当てられているだけで、その自我がどんな動きをして、どんなふうに人に作用するのかをしらない。

そういうことをわかりやすい言葉で、やさしく教えてくれている。


絵:「バスタブとゴースト」ペーパーバック表紙イラスト




2 件のコメント:

  1. こんにちは(^。^)

    ご紹介ありがとうございます
    m(._.)m
    いつもお茶目なつくしさんが
    真面目に語ってくださると
    感動しちゃいます。
    これからも仲良くお付き合いくださいませ
    (o^^o)

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  2. ハラン様

    コメントありがとうございます。
    私ごときが紹介などと、えらそーなことできませんが。。。
    やってしまいました。

    みんなに読んでもらえることを願って。
    こちらこそ、よろしくおねがいいたします。

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