2017年4月3日月曜日

心の中へ。。。


いつも何かわからない不安に振り回されていた。

その不安が、一体なんなのかわからなかった。
やがてその不安の原因は、いつも心の中でしゃべっている言葉であることに気がついた。
自分を否定してくる言葉。
否定、罪の意識、善悪の判断、優劣の比較。。。
その言葉は、まるで自分を押しつぶそうとしているかにみえた。

じっくり聞いていると、その言葉は自分にとって役に立たないものだと知りはじめる。むしろ自分に限界を与え、矮小化し、自分を陳腐で、何の役にも立たない愚か者におもわせているのだ。

いろんな精神世界の本から、これが「エゴの声」だと知る。
その声を自分の声だとおもいこみ、その言葉のいうことが正しいとおもいこみ、その言葉のいう通りに動く。
結果、自分を限りあるものだと信じ込み、自分を矮小化して行くというのだ。

なるほど、わたしの中に聞こえてくる言葉は、客観的にみると、まるでわたしを矮小化することを目的としているかのようだった。

それ以来、わたしはその言葉に乗っからないようにしはじめる。
いつも聞こえてくる言葉、自分を否定する言葉。
その言葉をただ聞くだけになった。
「ふ~ん。また言ってるな。。。」と。
それ以来、いつも動揺していたものが消えはじめる。


これで「エゴの声」は消えたかに思えた。
そのエゴの言葉は、粗大ではっきりとした言葉だった。
それで終らなかった。
今度は、もっと繊細な言葉になった。

一見、何を言っているのかわからない。だけど何か心を刺激する声だ。
その言葉にならないものを聞くと、またもや心が動揺して、なにかに突き動かされる反応に気がついた。
そしてその言葉にならないものが来たとき、それに乗らないようにした。

だがそれで終らなかった。
今度は、声でもなく、言葉にならないものでもなく、振動するような不快なバックグラウンドミュージックが、延々と自分のあたまの中で鳴っているのに気がつき、衝撃を受ける。

こんなものをわたしは聞き続けていたのか。。。
それはとてつもなく不快であった。
同時に、現代人はこういうバックグラウンドミュージックを聞き続けているのだと実感する。
延々と、言葉にも、声にも鳴らない、自分を否定するBGMが鳴り続けているのだ。
(どんなイージーリスニングやーっ!ってゆうか、ハードリスニングやな)
そりゃー、つかれるわ。

ここまで来た時、これは人にお勧めできる方法ではないなと思いはじめる。
こんなものに気がつくと、とてもじゃないが、まともに生きてられないと思った。

それもやがて山場を過ぎ。。。。

今度は探求する自分に気がつく。
「も、もうすぐ悟れる。。。。もうあとちょっとだ。。。だから、何か、ヒントを。。。。。」

必死で自分を解放してくれるネットを、言葉を、人を、ブログを、本を、探している自分に気がつく。

探求の衝動に気がつく。。。。。

その衝動に気がついたとき、あぜんとした。

これに突き動かされていたんだ。。。。。。


その衝動に気がついたとき、ただほおっておいた。
その衝動は消えていった。

探求の衝動さえも、エゴなのだろうか。。。。

ただ、この作業は確実に、からだも、心も、軽くさせていく。


絵:「けんぽ」表紙/アメリカ西部のワタリガラス




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