2016年3月23日水曜日

母のイヤイヤが消えた


「どんなふうに?」
「イヤイヤがない」
「イヤイヤて?え!まだあったの?」
「うん」
「いつまであったの?」
「ずーーっと」
「ずーーっとって、あんた。。。『行く』ってゆうてからも?」
「うん」
「ほな病院でも?」
「うん」
「え、ひょっとして、牧野植物園でも?」
「うん!」

なんと言う母だ。
あんなふうに「あ~~これてよかった~~」なんていってたくせに、あのときでさえも、「いやでいやでたまらんかった」というのだ。
これだから彼女の言葉は信用ならん。

「ほんなら、今の今まで、いやいややったん?」
「違う。途中で消えた」
「どこで?」
じーっと思いだす母。

「あそこで待ちゆうとき。あのとき、長ーいこと待たされて、いやでいやでたまらんかったがやけんど、そばのトサミズキ見よった時に、変わったんや。。。」
「へえ。。。」
「なんというかねえ。すうーーっとしたかんじ。あのイヤイヤはどこへいったんやろ、すっごくへん。全然違う。なんやろ、今のこの感じ、すっごく軽い」
とうれしそうだ。


人の感情ってなんだろう。いやいやだらけの感情の中にいても、何かの瞬間にふっと消えてしまう、これってなに?

あんな場所にひとりぽつねんと取り残されて、彼女はさぞかしイライラしたに違いない。ましてやイヤイヤな気持ちをずっと押し殺して来たのだ。その感情たるや頂点に達していたであろう。
だがそんな時、ふと目に止まったトサミズキの瑞々しさに心奪われた。
それまであたまの中で渦巻いていた考えが、花へと移行したとき、彼女の焦点が、あたまの中から、外のものに向けられた。
「ああ。なんてきれいなの。。。」
そのとき、心に充満していた思いの雲の中に、サーッと風が吹いたのかも知れない。


トサミズキが彼女を癒したのだと言うことも言えるかも知れないが、でもそれまでに彼女は何度もトサミズキをながめていた。だったら、そのとき変化があってもいいじゃないか。しかしそうはならなかった。
彼女の心に一種のあきらめのようなものが起こって、頭に充満していた考えが消えた。そのときはじめてトサミズキの存在に触れたのかも知れない。




感情とは、いとも簡単に変化する。だが人はその感情にふりまわされる。
何一つ変わってない状況下にいても、心の変化がその場を変える。なら状況は、心しだいだということだ。

彼女の心の中は、いつもあれがイヤだこれがイヤだと言い続けているようだ。しかしどうしてもやらなければいけないことがあるとき、いやいやを押し殺して、無理矢理行動する。
行動しているあいだは、「こけたらいかん、こけたらいかん。。。」を繰り返して唱えているらしい。

自分の身に起こるかどうかもわからない最悪のケースをイメージし、それに対処しようと策を練る。だがそれは必要以上にその思いに巻き込まれて行くことになる。そしてまたその怖れの中でまた別の怖れを産み育てるという連鎖反応がおこる。。。。
これは底なし沼だ。考えれば考えるほど、恐怖はさらに恐怖をあおりつづける。

「ずっと考えよった。出かけたときのことをずっとシュミレーションしよった。ほんなら、怖くなった。ドンドン出て行くのがイヤになった」



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