2015年7月16日木曜日

利休は知ってたんだろうな。



「今日は自分が今やっていることに、できるだけ意識を向けて味わってみよう」と思った。

左手でお皿をもつ感触や、右手でふきんを持つ布の感触や、両手をうまく連動させてお皿を拭く、という行為をする自分を味わうのだ。

ちょっと腰を屈めてお醤油を出す行為や、電話がなってそれに足が向く行為。今こうやってパソコンを打つ指やパソコンのプラスティックの感覚。メガネが鼻にかかっている感じやパソコン画面に映っている、後ろの庭の風景などなど。

そんな感覚を味わいながら、
「あ、利休ってこのことをやろうとしたんじゃないか。。。?」
っておもったんだ。

お茶の作法って、すべてを意識的にやる。
水差しを運ぶ足運び、お茶碗をもつしぐさ、ふくさをたたむしぐさ、柄杓をもつしぐさ。。。
あらゆるひとつひとつの動作が、まったく意識化されている。しかもその行為は、流れるような美しい線を描いて、ムダな動きがない。

その行為の間中、人の心はまったくの静寂の中にある。
静けさと行為だけがそこにある。

それこそ今を生きているではないか。

自分が消え、他人も消え、ただそこになにかがある。

これから戦に行く武士への心構えであり、ギフトでもあったのだろうか。

今ここにいる自分に意識的であると、身体がグワ、、と熱くなる。
今ここに存在するなにかが、ふくらんでくる。
内側からあふれてくるなにかに、くつろぐ。

最近疲れなくなって来たのも、そういうことがあるのかもしれない。

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