2015年6月28日日曜日

自分の知らない過去に会う



「つくし先輩は忘れもしない、寮の台所でゴキブリを素手でつかんで、この光沢がうつくしいって言ってました」
ラインで聞くしょーげきてきな過去の私。。。

知らんがな、知らんがな。そんなことしてたん??素手で?げげげー。
今はゴキちゃん見つけるとキャーキャー言ってるのに。

前にも言われたことがある。
修学旅行で生まれてはじめて富士山を見た時、富士山に向かって、「ほれたー!」と叫んでいたらしい。それを横で聴いていた友だちが30年ぶりに教えてくれた。
本人まったく覚えていない。どーも人は過去をテキトーに覚えていたり、抹殺したりしているよーだ。

もしゴキブリを素手でつかんでほれぼれしたり、富士山に向かって愛を告白したりするヤツがいたら、やまんばにはほれてまうくらい魅力的に見える。

しかしその当の本人は、そんなステキな感覚をちっとも覚えていず、むしろ、「あんなことヤッちまった。こんなことヤッちまった」ってことばかりを覚えているのだ。



記憶がその人を作っている。
自分で記憶したもので固めて、自分というものはこーゆーニンゲンなのだと決めているもんだ。だがその記憶の選択が、大らかでステキなことではなく、失敗したことや後悔したことや怒られたことや自己憐憫や自己嫌悪したことばかりをピックアップしているとしたら、なんてことだろう。

いや、むしろ人はそれの方が多い。一度だけ怒られたことを後生大事に持って生きる。

母の例がそうだ。
母は、一度だけ「歩くのが遅い」と言われただけで、その後の人生をそれに捧げた。
「あたしは歩くのが遅い。だから速く歩かなければいけないんだ」
と、それを乗り越えようと必死になり続けた結果、歩けなくなった。

だがその彼女の歩き方は、「優雅ね」「素敵」と言われたことの方がはるかに多い。
一度だけ指摘されたことを70年近く持ち続け、100回以上言われた褒め言葉をあっさりと捨てていく。

どれを選択するかで、その人の人生が大きく変わっていく。

もうそろそろやまんばは、自分にある「ねがちぶなモノ」を選択するのをやめよう。素手でゴキブリをつかんでほれぼれしてた私をチョイスしよう。


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