2013年12月8日日曜日

まちがい探し



まちがい探しってあるじゃない?
あれ、自分にやってんだな。

わしらは今、自分に不都合なことがあると、
「私の何がまちがってたんだろう?」
って自分の過去をふりかえる、まちがい探しが始まるんだ。

するとでてくるでてくる、自分が犯した「まちがい」のオンパレード。
あれもやってしまった、これもやってしまった、、、、ああ、だからわたしはこういう不都合な状態におかれているんだ、と納得するわけ。

わしらの基本概念は、過去があるから今の自分がある、過去の上に今の自分が成り立ってるという構図を作っている。いいかえれば「過去の内容」で自分を作りあげているんだ。

何がまちがってるかとゆーことにフォーカスをしていると、自分の過去とは、「まちがったことがいっぱい」ってなことになってくる。

そのまちがいを犯した時は、一瞬の出来事で、ものの1分ぐらいのもんだ。ところがまちがいを犯したことを思い出し思い出し思い出しして、そのシーンを何度も頭の中で蘇らせるんだな。するとほんの1分間の行為だったものが、何度も思い起こされて、全部足せば、何十時間、下手すりゃ何百時間と延々と上映されているわけだ。その出来事は自分の中で強化され、不動のものになっていく。私はこんな罪を犯した人間なのだ!というところまでいってしまう。

なぜこんなことになるのか。なぜ人々はネガティブなものにばかりフォーカスしてしまうのだろうか。
ちっちゃいとき、お箸を落っことして、そんなことをしてはいけないと言われ、宿題をやって来なかったことを指摘され、「二度とそんな過ちは犯すな!」みたいなことからの発端だったりするんじゃないだろうか?

くりかえしません、あやまちは。
そんなフレーズがどこかで私達の中にどっかり腰を下ろしていて、二度と犯しちゃいけないからと、なんどもなんども心に刻み付け、同じことをくりかえさないようにしているんではないだろうか。

思ったことは作られる。やっちゃいけないいけないと思いながら、そればっかに心が奪われていると、
「あああ~~、またやっちまった。。。」となる。
するとこれだから私の人生はこうなんだとなって、またその思いを強化していく、

とゆー構図になっているんんではないかいな。



じゃ反対に、良かったこと、正しかったこと、うれしかったこと、達成感、みたいなものを思い出してみるとどーなるかやってみてもいーんじゃね?
すると、、、

なかなか思い出せないんだなあ、これが。
失敗こいたヤツはいくらでも思い出せるのに、成功したことはドドーンと押し入れの中に押しやられてて、「はて?どこにあるんや?」とみつけられない。

どーも心の習慣は、ほとんどがまちがい探しをすることに長けてしまってて、よかったことうれしかったこと探しが抜け落ちている。
やはり小さい時の「二度とそんな過ちは犯すな!」というのがバッチシ入っているもよう。


ネガティブなことばかりに意識があると、そういうものも呼び込んでくるし、またそういうトーンも放つ。テレパシーってのは、特別な能力の人だけが持つものではなくて、じつはだれでもやっている。
なんかあの人ビンボー臭いわよねえってなんとなくわかるし、ヤーな感じの人よねえってのもわかる。言葉や服でわからなくても、放たれる雰囲気で何かを感じる。
いろんなことに怒ってばっかりいる人や、嘆いてばかりいる人は、やっぱり嘆くものや、怒る材料がまわりにひっぱられるようにやってくる。


ほんとは失敗したことよりも、達成できたことや、能力がある部分なんかいっぱいあったはずだ。たぶん失敗なんて全体の1%にもみたないにちがいない。そのたった1%の失敗にだけフォーカスしてそれを強化する意味があるんだろうか。

それよか、あとの99%の中にいっぱい含まれている、手際の良さ、ほめられたこと、達成感、幸せに思ったこと、その人だけが持つ能力、やさしさ、人にウケたジョーク、、、山のようにあるホクホクすること。そっちの過去でいっぱい満たすことになんの罪がある?

それを強化すると、自分の価値が倍増しない?いいんだこれでっておもえない?
そのトーンはテレパシーのように自分のまわりに広がり、なんだかまわりをあったかくし、自分もそれを見てまた幸せが倍増する。

ホクホク探しで、100000000000倍返しだ!



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