2013年1月23日水曜日

信念の始まり(新年じゃないよ)



信念はあらゆるところにある。(きのうのつづき)
信念のはじまるところからみてみよう。

この世に生まれでてから、ぼーっとまわりを見ている。輪郭のないぼんやりした明るい世界。するとそこで何かがうろうろしているのが見える。そのなにかがこっちに向かって音を発する。しょっちゅう音を発するので、その音のでるものをみようとする。するとだんだんぼやけたものに輪郭がついてくる。そのものは、
「けいこちゃん」という音を何度も発するので、どうもこっちとそっちがあるんだなと気づく。
そんでもってその繰り返される音が、こっち側に与えられた特定のものだと分る。
こうして名前というものを知る。

ここまでですくなくとも、こっち側とあっち側とに別れている、その別れているものは、個々に独立している。その個々にはそれぞれ名前というものが割り振られている、という信念が作られる。

これが信念だって?バカな事を言うな。あたりまえのことだろう。
やまんばは、いっつもへんちくりんなブログ書きながら、そんな言葉を言われるんだろうなあ~とびびる。だったら書くな!なんだけど、なんかおもしろくてつい書きたくなる。このあまのじゃくな性格はなんとかならんのか。

では先へ進む。
信念って言葉が不適切なら、洗脳でもいい(もっと不適切じゃ)。
そのこっちに向かってしゃべっている存在は、この世のあらゆることをこっち側に仕込む。仕込まれながら、こっち側の存在は、
「この世は物質でできているんだな。それにはいろんな名前というものがついているんだな。それは上とか下とか横とかいろんなところにある。それにびっくりすることに、それはときどき上から下に落ちたりする。なるほど。ここはそういう世界なのか。。。」

その仕込まれたものは、その後後生大事に使われる。なんせこの世のことを自分より知っている存在なのである。その存在のいうことはスポンジが水を吸収するごとくすいこんで吸い込んで吸い込みまくるのだ。
こうして同じ空間にすんでいる存在たちの影響をほぼほぼ受けつつ大人になる。

やまんばは最近自分の考えが、何から何まで母親にそっくりなのを知る。いや、母親にまったく似ていないところもある。だがそれもよく観察すると、母親のイヤ~な部分ヘの反発としてそういう性格になっているだけのことだったりする。結局、彼女の影響下からはほぼ抜け出せていない。一人っ子はまともに親の影響を受けるが、兄弟はより複雑な信念体系ができる。

信念は箸の上げ下げから、宇宙に飛ぶロケットにまで広がっている。そして一度インプットされた信念は、自ら意識しない限りまったく変化しない。たまに同じ項目で違う信念にぶつかると「それ、ちがーう!」とケンカになる。ほら、夫婦がしょーもないことでケンカする、あれだ。
だがその信念の違いは破壊を生む。夫婦間の破壊から、国家の破壊まで。
信念をなめたらいかんぜよー!

意見のちがいは信念のちがい。
どっちが正しいっちゅーてケンカしても、そのバックボーンがちがうからちがいが生まれただけだ。そこをいくら議論してもぜーぜーと肩で息して疲れて寝込む。夫婦ゲンカは犬も食わんのは、犬はその意味を知っているのかい!

結局ダンナとケンカするのは、自分の信念がどんなものであるかを思い起こさせてくれるいいきっかけになっている。
これは正しいこれはまちがっているという信念は、だいたい自分が生まれ育った家庭の中で生まれた価値観だ。それをどっちかのルールにあわせると、あわせさせられた方がそのうちブチキレる。
うちじゃご飯茶碗は左側でお味噌汁は右側だ。これはウチの母から教わっただいじーな作法だ。だがダンナはご飯は右側に決まってるだろうという。ありえない。
「おたくはそんなふうに教わったの?」
「いんや。だれにもおそわってない。オレが決めた」という。
ありえなーい!
だがそんなことでケンカをしてもエネルギーのムダだ。彼の好きにさせよう。

そういう風に大事な価値観が(どこがや)砕けちる瞬間がみそだ。

自分が何に信念を持っていて、その信念がいつのまにか自分のアイデンティティになっているという真実だ。それは石けんなし生活ではっきりと意識した。あれはおてんとさんがひっくり返るほどの大ショックだった。石けんなくってもいーじゃーん!と。

長い?長いよねえ。。。どこで切ろうか。。。
信念は深過ぎて簡単に言い切れない。。。
え?いつものこと?
すいましぇ〜ん。。。

2 件のコメント:

  1. まいうぅーぱぱ2013年1月29日 0:45

    みんなじゃんけんぽんで決めなされ!!!!」

    返信削除
  2. じゃんけんぼん!

    それでいこ。

    返信削除