2012年8月27日月曜日

心をむなしくする



。。。なんか腹立ってきたなあ。
サルの視点に立ってみても役に立たねえなあ。。。
って、サルの視点には立ってない。はらわた煮えくり返るおもいでソーゾーしているだけだ。

自分のはらわたをおいといて、本気でサルの視点に立つと
「ああおいしかった、腹一杯だあ~、しゃあ~わせ~」だ。サルは満足したんだろう。

それをニンゲンが解釈すると、にくったらしい顔で、
「へっへっへ。ニンゲンの野菜を食っちゃったよ~ん。ざまーみろ」
という悪党になる。
だが単にサルが食った、という事実だけなのだ。

サルにほじくられたという過去を通して、きっとまたやられるだろうと未来を案じている。
ところが今、この畑に立っている瞬間は、サルはいない。ほじくられたり荒らされたりもしていない。今は全然オッケーなのだ。
でも未来を案じる。私たちは今を生きられない。

なんでかしらんが、わしらはつねに過去の経験を通して、未来を予測して案じるという手法を使っている。すると今は穏やかでオッケーな気分が、未来を想定することによって、今がいきなりオッケーじゃなくなるじゃあねえか!
これが思考のクセだ。
今にはちっとも生きてなくて、ニンゲンは過去と未来を行ったり来たりする、思考のお化けなのだ。

つまりね、わしらは安心が欲しいのじゃないだろうか。安心安定永遠に。安心さんに永遠に保証されたいのだ。地面が揺れては困るのだ。人生に波があっては困るのだ。平穏無事に人生を全うしたいのだ。

だがそんな人生はどこにある?そもそも安定とかあったっけ?いつだって揺れているし、いつだって変化を突き進んでいるじゃないか。カラダだって今この瞬間どんどん変わってる。胃も血液も心臓も一時も停まることを知らない。畑だって顔だって毎年変わる。今日のやまんばは、もう昨日のやまんばではないのだ。

なにかしなければいけないとつねに思うのは、そういうイヤな未来を想定して、それを回避しようという抵抗なのではないか?変化は変えられないのに、変化するものに抵抗してる。のれんに腕押し。馬の耳に念仏(ちょとちがう)。無駄なテーコーはやめろ!よく考えりゃ、心臓止めようとしても生きてる限りとまんないじゃないか!という事は、安定とはほんとうは死のことなんじゃないか。。。。?
生きている限り、つねに変化をしているのが、生というもんなんじゃないのか。

人は無駄な抵抗に思考を使っているフシがある。地面が揺れている最中に、仁王立ちして揺れないように両足でふんばっているようなもんだ。(そりゃ、あんただろ)
ああ、ダメなんだ。
おれの人生いっつもこうだ。
やっぱりこういうことか。
もういやだあ〜っ!

何かあったとき、イヤなことを思い出した時、頭の中はこういう種類の思考を使っている。だがそれは創造的とはいえない。
でも、

「それもやがて過ぎ去る」
「こまったときはそのままにしておけ」
They are changing.
すべてはそこにとどまるものではない。やがて過ぎ去る。
この思考は使える。

一種のあきらめのような、無抵抗の感覚。その後ろに広がる大きな空間。

思考を使って使って使いまくって疲れ果てた後にやってくる虚脱感からくる無抵抗のうしろの静かな空間。そこに今まで気がつかなかったものが、まるでずっとそばにいたかのように突然立っている。それがインスピレーション。

だけど使いまくって無気力になってでないと得られないものではないようだ。ここに思考を道具として使うヒントがある。

心をむなしくする。
どうもそれが創造的行為のようなのだ。

畑でぼーっと立つやまんばの中に、小さなインスピレーションが入ってきた。


絵:MF新書表紙「プロセスにこそ価値がある
結果ばかり、数値ばかりを追い求めることによって人は生きづらくなる。でも人生はプロセスを楽しむことなのだ!

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