2012年3月6日火曜日

思考は焦点を合わせると動き始める


「観の目強く、見の目弱く」という言葉がある。宮本武蔵だったっけ?
目の前にあるものを見ることでは浅くしか物事を捉えられないが、観の目でみると、物事の本質を知ることができる、というものらしい。

とかく人は物質的なものにすぐとらわれる。目の前にいる人の話を聞きながら、
「あ、この人、鼻毛でてる。。」とか。(そこ?)

観の目とは、心の目ともいわれるけど、さて、どうやったらその心の目で見ることが出来るんだろか。観光の観だから、旅行気分で見ればいーんだろか。(そこ?)

やまんばは考えた。
気がつくとやまんばは、いつも目の前にあるものにピントをあわせている。

ほげーっと、意味もなくコーヒーカップを見ている。するとコーヒーカップから、連想ゲームが始まる。
「コーヒーねえ。。。あ、コーヒー豆なくなってきたなあ。。。ふじだなさんにいかないといけないなあ。。(ふじだなさんとは近所のコーヒー焙煎店)ふじだなさんといえば、Aさんと久しく会ってないなあ。。。ああ、そーいや、彼に悪いことしちゃったんだよなあ。。。あたしって、なんて気が回らないんだろ。。。あんとき、あーやっておいたら、彼も傷つかずにすんだのに。。。ああ、、あたしって、ホーンとにバカ。。。。だいたい、あたしったら、全然人に気を使わないんだよね。。。いや、これでも気を使っているつもりなのよ。気を使っているつもりなんだけど、やっぱりねえ。。。根がアホだから、ここっていう時に。だめなのよー。。」

と、一人妄想がひたひたとおこなわれている。
つまり思考というものは、何かにピントを合わせると、自動的に思考が始まるんじゃないか?と思ったわけだ。んで、ためしに、どこにもピントを合わせないようにしてみる。。。。
すると、、、
思考が動かないのだ。
面白くなって、川っぺりの道を歩きながらやってみた。(良い子はマネしないようにね)すると、全体が見渡せるようになる。足下に石があってそれをよけるように歩いたり、いつもは見えなかった木に、機械できれいにきったみたいに丸い穴があいていることなど、ピントを合わせて歩いていたときより、いろんなことに気がつくのだ。

それに自分の手や、足や、動作の動きや鳥の鳴き声や、川のせせらぎがいつもよりはっきり聞こえて来る。そして思考が動いていなかったのだ。

なんで?
ひょっとしたら、これが「今を生きる」ことなのか?刹那を生きるとは、一瞬一瞬を「生きる」ことだ。それがほんの少し垣間見えたような気がした。

近所にすむインディアンに詳しい友だちが言っていたなあ。なんだっけ?なんか似たようなこといってたなあ。。。。電話して聞く。
「ああ、それ、ワイドアングルビジョン。」

2 件のコメント:

  1. ワイドアングルビジョンが新鮮で、みはらしのいいところに、いきたがるのかもしれませんね。今日のふじだなブレンド紹介素敵でした。

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  2. ひえ〜、みられた?はずかしー。

    見晴らしのいいところに立って、でっかいスケールで世の中を見てくださいな〜。

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