2008年11月24日月曜日

敵?味方?



今日電車に乗ったら、社内は混み合っていた。
一個だけ席が空いていたが、その上には白いカバンが二つのっかっている。私はそれをどけてもらおうと、
「ここ、開いてる?」
と、そのカバンの持ち主であろうお姉ちゃんに聞いた。

おねえちゃんは、大きなグラデーションのかかったサングラス越しにこっちをむいた。ガムを噛みながら、なにもせず私をしばらく見ている。サングラスで表情はわからないが、どうも私を睨みつけている模様。

私はじっと待った。すると彼女はこれでもかというぐらいゆっくりとした動きで、大きな白いカバンを取り上げた。そうしてそれをクレーンで運ぶかのように、真横に移動させ、自分の目の前で手をいきなりはなし、カバンを落とした。ガチャン!中に入っていたものが床に当たって音を立てた。

私は一瞬ヤバイと思った。
よく見ると、彼女の座り方はふんぞり返り、キラキラ光る黒いエネメルのハイヒールのブーツの片方を、前に思いっきり投げ出している。ほら、よくその筋のお方がお座りになられるような、威嚇座りをなさっていた。

私はもう一個のカバンが異動するのも待った。お姉ちゃんはあいかわらず私を睨みつけながら、もう一つのカバンを膝の上に置いた。上に羽織ったニットのコートのすそが、まだ座席に残っている。私はそれを彼女の方に寄せながら、「ありがと」と言って座った。

人は人のとなりにくると、その人の何気ない雰囲気やオーラのようなものを感じる。彼女の横に座った時、それはすぐにやって来た。まるで赤ちゃんのような雰囲気。
小さな甘えるようなカワイイ高い声で、となりの彼氏としゃべっている。彼氏もまた小さな声でしゃべる。その二人のソフトなトーンに何とも言えないスイートな感じがあった。
「あのねえ、あたしねむけがさめちゃった」
そりゃそーだろー。おばさんがあなたを働かせたもんねえ...。

それにしてもさっきの彼女のトーンとはまるで違うではないか。月とスッポン、悪魔と天使。これが同じニンゲンか?ほんの5秒前と全然違うではないか。今、彼氏と話す彼女は、ホントにいい子だった。

彼らの意識の中には、敵と味方がいるのではないだろうか。
味方は自分を守ってくれる彼氏。でも外のニンゲンや社会は、全部敵。時には身内も敵になるのだろう。そうやって結界やバリヤーをはって生きている。

日本に帰って来て、テレビで最近よく聞くセリフで気になるものが。
「信じているから」
「仲間だから」
「味方だから」
いつの間にこんな言葉がはびこったのだろう。私がいた96年まではそんなセリフはしょっちゅう聞かれるものではなかった。

ニューヨークにいた頃、じつはこの言葉をよく聞いた。
「I can believe you.(あんたを信じられる)」
なんでわざわざそんなことを言うのだ?と聞くと、だって、君ら二人は信じられるゆいいつの友達だといった。

前の日本では、人に対して「君を信じられるから」なんて言ったこともなければ、言われたこともない。だって、信じるもなにも、友達なら信用しててあたりまえだったのだもの。わざわざいうなんて、どっかおかしーんじゃねえの?という感覚だった。
だから「アメリカ人って、おっかしー」って、一笑に付していた。
ところが帰ってくると、面と向ってマジ顔でそんな言葉を言われる。私はきょとんとする。ニッポンがアメリカ化していた。

つまり、この世には信じられるものがない、という前提なのだ。信じられるものや人がいないから、信じられる人を求める。だから私たち二人は、信じられる貴重な存在だと。
そんなことを言われて「はいそうですか」と喜べる私ではない。褒められているとは思えない。なぜならその言葉を発する彼らの背後に、例えようのないさびしさを感じるからだ。

前に書いたアメリカの「平等」や「自由」もそうだ。そんなものはないに等しいから平等だ、自由だと叫ぶ。
だから「信じられる」や「仲間」や「味方」は、すでに見失っているからあえて叫ぶコトバなのだ。

ある島では、しあわせというコトバがないと言う。それは、すでにしあわせだからだ。それをあえて意識する必要もないのだ。


冒頭のかわいいおねえちゃんは、彼氏以外には、全身でトゲを出しているのだろう。だがその彼氏だって、いつか、信じられない敵になる日が来るかもしれない。それはたぶん、なんてことのない出来事で。その時彼女はいったいどうなるのだろう。自分以外は、全員敵になるのだ。



ガチャン!とカバンを落とした時、私の顔や態度が彼女を責めるようなモノに変わっていたら、彼女は敵をここにまた一人見つけ出しただろう。あるいは(たぶん無意識に)それを狙っていたのかもしれない。あれは彼女の自己表現だ。こんな悪いことをしている私を、おばさんはどうする?と挑発して来た。
しかし私は顔色一つ変えなかった。彼女への非難めいた気持ちは何もなかった。ただ待った。そして「ありがと」といった。

彼女にとって私は、敵でも味方でもなかった。そんな人もこの世にはいるのだ。世の中すべての人が敵じゃない。それを見た彼女はちゃんと応対をした。そしていつもの温かいふわふわした心で彼氏としゃべり始めたのだ。そんなシーンが彼女のまわりで少しずつ増えてくると、彼女の態度も変わってくのだろうな。
ケバい格好で態度はあばずれ風でも、心の中はいたって素直でいい子たち。ただただ、赤ちゃんのようにこの世を怖がっているだけなのだな。今日、そんなことを知って、やっぱりそうかーと、うれしかった。

電車を出る時、彼女が床に落としたカバンを持って歩く彼氏に、コロコロとくっついていく彼女がかわいかったなあ。



今は人の心が異常に過敏になっているのではないだろうか。傷つけられた、傷ついたといつも思っている。そこには、自分を絶対傷つけない味方が必要になってくる。仲間が必要になってくる。傷つけない相手は「信じられる」のだ。でもそんな条件付きの関係は、なんでもないことで破綻しないだろうか。

その「信じているから」の「から」に何か引っかかるものがあるのは私だけだろうか。
信じているなら、「信じている」だけでいいではないか。でも最近のことばには、よく「から」がついてくる。
そこには、ことばにしないもう一つのコトバが隠されている気がする。

「信じているから、(オレを裏切るなよ)」
「仲間だから、(みんなを裏切るなよ)」
「味方だから、(あたしを傷つけないでね)」

ほとんど脅迫だーっ!
言っている人が、言われている人にむかって、おまえ裏切るんじゃねえぞ、傷つけんじゃねえぞと、確認をとられているような、そして脅しをかけられているような、妙な圧力がある。

これこそ、条件付きの仲間であり、味方なのではないのか?それってホントの仲間?

この世は信じられるとか、信じられないとか、敵だとか、味方だとかという単純なものなんだろうか?
二元論的な物差しで計りきれるものなんだろうか。そこにどこかムリがあるから、しだいにひずんでくるんじゃないのだろうか....。それはまるでこの世の色を、黒か白で表せと言っているようなものかも。黒と白の間には、何千、何万、何億色というグレーゾーンが広がっているのに。

私はその巨大なグレーゾーンの中に秘密があるような気がする。

絵:ANA動物診断 「ひつじ」

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