2008年9月11日木曜日

witch



私にもトラウマがある。
それはニューヨークで生活し始めてから、より強調されるようになった。
ずいぶん治安はよくなったとはいっても、日本の治安の良さとはダントツに違う。いつも財布をとられないかとびくびくしていたし、夜歩くときはまわりを気にしていた。家の中では突然大音響パーティが始まらないかと、耳を尖らせる。それもこれもいろんないやな思い何度も味わったからだ。
人は一度いやな経験をすると、ご丁寧に似たような状況に出くわすと、その一番辛かった感情を呼び起こすようだ。だからちょっとでもアパートの上の住人が靴音をさせるとびくっとする。いつのまにか意識は上の住人が出す音に集中する。からだ中の全神経が総立ちになって、ゲゲゲの鬼太郎の髪の毛アンテナじゃないけれど、体毛が全部逆立って、上の住人の音を聞いている。
そうすると、通常の耳よりもだんぜん聞こえがいい。上の住人の生活している様子まで伝わってくる。
人の感覚というモノはそらおそろしいもんだ。そのうち、自動盗聴まで出来ちゃうんじゃないか?
ニンゲン、恐怖と隣り合わせになると、どんな感覚が開きはじめるかわかったもんじゃない。だって、こんなに大きな脳みその10分の1も使ってないそうじゃない。(どーやって調べるんだかわからないが...)
残りはどこへいったのだ?

たぶん、いつもはそういう感覚にふたをしているんだろうな。だって、上の住人や下の住人や外を歩く人々の出す音が、全部聞こえたらどうなる?その人たちの生活の様子まで手に取るように感じたら?
きっと頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃって、神経がおかしくなってくるんだろう。だからあとの10分の9は、いざというときのために、とっておいてあるのかもしれない。おばあさんが、火事場でタンスを運べるように。

トラウマの話しから、いらんところにいってしまった....。

今はそんな音の恐怖からは解放されているが、似たような状況がくるとどう反応してしまうかわからない。そのくらい人の反応とは、悲しいくらいパブロフの犬みたいなところがある。

人が怒ったり、哀しんだりしている感情のウラには、ある種のパターンがひそんでいるかもしれない。その元になる過去の出来事を外から分析してみると、その辛かったことは、今起こっているわけではないことに気がつく。その最悪の事態は今は何もない事に気がつく。
「ほら、何もないじゃない。だいじょーぶよ、つくしちゃん」といいつつ、一人カウンセラーをやっているこのごろである(苦笑)。

絵:昨日出来立てほやほやのオリジナル『witch』

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