蒸し暑い夜、窓を開けるとホタルが飛んでいた。
闇の中をフワンフワンと浮きながら、ホワンホワンと光を放つ。
初めは川の上を飛んでいたが、そのうち庭に上がってきた。
一匹がうちの庭を舞う。そのうちもう一匹、そしてさらに。
三匹のホタルが私の眼の前で踊ってくれた。
ここに来て20年経つが、そんな光景は初めて見た。
今年は多いのかと思いきや、その3、4匹ぐらいしかいない。
その彼らがわざわざうちの庭に集まってくれたのだ。
彼らの光は喜びを誘う。いつまでも見ていた。
「窯から出した気に入らない器はどんどん割りなさい。
そうすれば残った器に価値が出る」
陶芸教室の窯出しの日、88歳の先生は私に言った。
まるで陶芸家に言うみたいだ。
別に陶芸家になりたいわけじゃない。
ただ面白いから習っているだけだ。
だけどさっき割ってみた。なんかスッとした。
絵はかさばらないけど、陶器は存在感がある。
駄作がこの空間にあるのはなんか嫌だ。
ただゴミとして捨てるんじゃなくて、割って消えていくのっていいな。
粘土は焼かないといくらでも再生できる。
しかし1200度の高温で焼くと粘土は石になる。
それは割ることによって、人の痕跡を消していき、
ゆっくりと自然に帰っていくのだろう。
和紙の作品と陶芸。どんな関わりがあるんだろうか。
でもきっと関連があるはずだと思っていた。
先日絵を制作している時、その恩恵のひとつに気がついた。
指先の感覚が鋭くなっていたのだ。
老眼であまり見えなくなっていたカッターの先や筆の先。
その先の感覚が指を伝ってこっちに感じる。
いや、指が筆先に届いていたというか。
手回し轆轤を使って作っている時、その指先のわずかな感覚に集中する。
本当にわずかな感覚。
「粘土は記憶する」
「粘土は叩くんじゃない」
「回転させていると、中に入っている土の塊は勝手に上がってくる」
先生の話を聞いていると、粘土を生き物のように言う。
そう言われるとただの土の塊じゃなくなってくる。
回転という対話をしながら、粘土に形を作ってもらう感じ。
無言の会話をしながら作っていく間に、新しい感覚も芽生えてきたんだろうか。
目で見てとらえるものだと思っていたものが、別の目がついていることを知る。
目の見えない人が街を歩くとき、杖の先に目がついているみたいな感覚に近いのだろうか。
杖はその人の身体の一部だ。
指先も道具を通してその目になるのかもしれない。
土、紙、そして釉薬という草木灰。
大地から現れてくるものを使って、人はものを作る。
陶器の形に描かれてる絵柄がなんとも素敵です~
返信削除おー。麻里さん、お久しぶり。
削除絵柄、褒めてくれてありがとう〜。
何の花でもない何の草でもないオリジナルな植物です(笑)