母の一周忌の法要が行われるその日の朝は大雨だった。
朝はやくから土佐和紙の工房に出かけて、
前もって頼んでおいた染めの和紙を見にいく。
和紙職人の田村さんは、新たなパターンの染めも展開していた。
「つくしさん、この染めをどう使う?」
と挑まれている感じがして
「よし。受けて立つぞ」と購入。
職人さんとのこういう無言のやりとりがおもしろい。
彼は先日賞をとった。和紙の作品で賞を取るのは珍しいという。
そういう人の手で作られた和紙で作品を作るこの贅沢さ。改めて光栄に思う。
「機械ですいた和紙よりも、手すきの和紙は軽いんです。」
100枚近い和紙をクルクルと巻いて、小脇に抱えてもって帰ってきた。
和紙は以前あつかっていた洋紙とは比べものにならない軽さ。
それが手すきならなおさらだという。
人の手にかかっては全てが魔法のようになる。
「今日はね、胡蝶蘭が安く手に入ったから入れちょいたぞね」
「胡蝶蘭!母の大好きな花です。ありがとう~」
前日に頼んでおいたお供え物の果物やお花を
スーパーに取りに行った頃には雨は随分上がっていた。
小さい頃一人でよく遊びに行っていたお寺。
半世紀以上足を運んだことがなかった。
今見ると南国特有の明るさがあった。
浅黒いお顔に少し茶色に染めた刈り上げの若いお兄さんが和尚様。
最初見たときサーファーかと思ったぐらい。実際はサッカーをやっている。
「南無阿弥陀仏とは、仏さま、おかげさまで生かされています。
ありがとうございます。という意味です。皆さんで拝みましょう。
なんまんだー、なまんだー、なんまんだー。。。」
おかげさま。他力の匂いがする。
言葉は違うけど、聖霊に委ねる、お任せするというコースの教えと似ていると思った。
なかなかの美声の和尚様。
きっちりと刈り上げられた後ろ姿を眺めながら、
心は広がりとても幸せな気持ちに浸っていた。
母が外にいるとはもう思えなくなって、
法事や墓参りに意味を見出せなくなっている私だが、
こうしてこの世界の用事を別の見方でとらえていくことに意義があるように思えた。
亡き人を思う。
お花を飾る。
お供物を飾る。
読経を聞く。
静かな心になる。
体というものに囚われて、自分と他人は違う。
自分は生きているけど、あの人はもう死んだ。。。
そういう分離の考えから抜け出して、
すべてが愛で動いている。
そう思えるようになってきた。
早いもので、いつのまにか法要すまされたのですね。また、和紙の作品楽しみにしてますね。
返信削除麻里さん、ありがとう。
削除こじんまりと済ませてきました。
これから制作に入ります。