2024年9月21日土曜日

何も起こっていないのかもしれない

 


人が嫌なことをするのを見る時、

それは自分の鏡、自分がそうなのだと思い、

自分を責めてしまうことが多々ある。


罪悪感を持ちやすい私みたいな人は、

すぐそれを「自分がやった」と言って自分を責めてしまう道具にする。


自我はなんでも罪悪感を誘発する材料にする。

だから「投影」という言葉は恐れを生み出す。


そこで「うっ。。。」と立ち止まる。

自我の誘惑に乗るのをやめてみる。


そしたらこう囁かれるのだ。


「やめたらダメだ。

それをやっているからお前はまだマシなのだ。

やめたらとんでもない人間になるぞ!」




「奇跡のコース」はそれを聖霊と共に見て、

それを何も起こってないこととして赦す。。。。



となるのだが、

この「何も起こってないこととして」というところが、

どうしてもそうは思えなかった。


いや、起こってるし!

目の前で見えるし!


ないことにするフリはできても、

ないとはならないし!


と、苦悩してきた。


しかし「何も起こっていないこととして」とは信じられなくても
「何も起こっていないのかもしれない。。。」

と、その可能性を思ってみるのは助けになる。


そして「聖霊はこの場面をどう見ているんだろう?」

と想像してみるのも手だ。


きっと聖霊は、微笑んでいるだけだろう。

人を批判している兄弟にも、それを見ている私にも、

きっとその両方に微笑みかけてみているだけだろう。



そう想像するとき、世界を遠くに見る。

その時、ほんの少しこの横軸の世界から

縦軸に引き上げられているのかもしれない。


誰が何を言おうと、何をしていようと、

それをただ微笑みの中で見ることができる。




何の責任も取る必要がない。

私が「どう見るか」にだけ責任がある。


起こっている出来事は結果でしかなく、過去だ。

そこをいじる必要もない。

そもそもそこはいじれないし。


それをどう見るか。

誰と見るか。


それだけだったのだ。


あまりにもシンプルで愕然とする。


だがあまりにもその言葉は深かった。







和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです



2024年9月20日金曜日

出てきてくれてありがとう



ある時急に具合が悪くなった。

誰か助けてくれ。。。そう思ったが誰も助けてくれない。

一人体の不調に耐えた。

私のことを誰も助けてくれない。。。。

襲ってくる恐れ、そして怒り。


あ、今日はこれか。。。


毎日予想もしなかったところから、レッスンがやってくる。

その都度それと向き合う。



不意に出てくる恐れを、これは自分の考えではない、

ただ湧いてきただけだと流すことは私にはできない。

そこに出てくる思いは、

きっと私の中にある何かが出てきてくれようとしているのだと思っている。


「これはこういうものだ」という信念が私を苦しめていると

苦しみの原因がはっきりわかるものもあれば、

言葉に置き換えられない漠然とした恐れもある。

しかしその恐れも、私の中にあるものが浮上して浄化を促していると信じるようになった。

個人の私と言いながらも、私たち全員であるひとつの心が恐れを持っていて、

それを私を通して浮上してきているんだろうと。


「恐れが出てきてくれているんだな。

出てきてくれてありがとう。」


恐れている最中は苦しいが、その恐れを優しく見る時間をもつことが大事だ。

それはその恐れを自分のこととして受け入れ、赦していく行為なのだと思う。

隠し持っている闇を光の下に持っていくのだ。


その中にいるうち、みるみるうちにその恐れが消えていくことがある。

そういう経験が「恐れは物質的に解決してこそ消えていくものではない」ことを実感する。


先日もどこから聞こえてきているかわからない音に悩まされた。

よく聞いていると壁の中だ。壁の中ではどうしようもない。

しかも誰が立てている音かもわからない。

どうしようもなく、誰の音かもわからない、何の解決法もない中で、

私は音に対する恐れを持っていることに向かわなければいけないこと(レッスン)を知る。


何かを削除して物事を解決するというのは、

この物理的な世界の解決法だ。

しかし原因はそこにはない。

心の中に何を信じているかを見るきっかけを教えてくれているだけなのだ。



そうやってだんだん物理的なことではなく、心が重要なのだと気づいてくる。

心が変われば物理的な変化がなくとも安堵する。

これにはいつも驚く。

目の前のものが何一つ変わっていないのに、

喜びが溢れてくるのだから。


こういう体験が増えてくると、この世界が少し遠のく。

この世が幻想だという言葉もがぜん真実味を帯びてくる。


そうして満月を眺めながら喜びで涙が止まらない夜もやってくる。








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2024年9月17日火曜日

麦汁プッシュ〜タイム!

カクテキとエンガワのユッケ

高知の竹輪とシメサバのかまぼこ
 

ほぼ毎日夕方になると、

ちょいとしたツマミを作って、

縁側でうちの荒れ果てた庭とその向こうの川、

そして山を眺めながら一人晩酌としけこむ。

旦那は一切飲めないからね。


枝豆とエイヒレ

手作りチャーシュー





いいあんばいに酔っぱらってきたら、

どっこいしょと重い腰を上げて晩御飯を作る。

なんで一杯引っ掛けないといけないかというと、

晩御飯を作るという巨大なプレッシャーの重さに耐えきれないからだ。


採れたて筍のお刺身



世の中の奥様方には頭がさがる。

なんでみんな毎日毎日ご飯を作り続けられるのだろう。

しかも朝ごはん、昼ごはんまで!

ドラマに出てくる晩御飯の種類たるや、すごい。

みんな旦那や子供たちの健康のことを考えて、

あんな風に作っているんだろーな。

すごいことだー。


どこからもらったのか覚えてないアワビ



だから私はキッチンドランカーなのだ。

で、晩御飯作り終える頃にはもうお酒でお腹いっぱい。

旦那と食べるご飯どきにはちろっとしか飲まない。

まあ、こんなオババもいてもいいだろう。



サーモンのカナッペ

これなんだっけ?





写真はフェイスブックにいつも載せている

「麦汁プッシュ~っ!」タイムの写真だ。


写真はその都度どんどん捨てているのであんまり残ってない。

冬になると日本酒が多いな。

そんときは「米汁プッシュ~っ!」なのだ。

あれ。プッシュ~なわけないか(笑)


たけのこの煮たやつ

あんまり美味しくなかった焼きトウモロコシ





ってことで、未来まっちろ、さっぱりわからないものは、

今日もしぶとく生きてますよ、

私よりはるかに若い香港さん!(笑)


お互い、誰にも何も引かれていない

道なき道を進んでいこう~!


ヒャッホーイ!



煮こごりと美味い日本酒



2024年9月10日火曜日

出ちゃったー


 

人をさばいたら自分が傷つく。


だから人をさばかないように、

悪口を言わないようにしてきた。


だけどある時、もうどうにも我慢できなくて、

人を罵倒してしまった。

「謝れ!バカヤロウ!」

と、ガンガン言ってしまった。


こう見えて(どう見えてだ?)滅多に罵倒しない私。

でもたまに怒鳴ることがある。

でもそのあとはいつも後悔の時間が待っていた。

自分の罪の深さにさいなまれ続けた。


ところがその時は、何の後悔もなかった。

スッキリして心の中は静かだった。


「はて?」


静けさの中で「まあ、ええか」と放っておいた。



癒しが進んでいくと、誰かに何を言ったとしても、

罪の意識を感じなくなるという。


誰かと言っても、外にいる他人ではなく、

それは自分自身に向けている思いなのだ。


私が私に「謝れ、バカヤロウ!」と言っているだけなのだ。


そのことが知識や理屈ではなく、本当に理解し始めているのだろうか。


理解と、癒しは比例しているように思う。

癒されれば癒されるほど、理解が進む。


癒されることによって、心が柔らかくなる。



そんな出来事があってから、

どんな出来事もその背後に癒しが待っているのだと確信するようになった。

そこに癒しという目的がある。

だとするなら出来事は偶然ではなく、絶えず必然なのだ。


苦しかったら、腹がたったら、怖かったら、それを正直に出す。

その思いを封印することなく、


「出ちゃったー」で、いいのだ。


そんなことを書いているブログにも出会った。


その出たものを、罪悪感を感じることなく、自分のものとして受け取る。

たぶんここが大事。自分のものを自分の方に戻す。


目の前に現れているものは、すべて自分の思いだ。

世界は自分が信じたもので覆われている。

実のところ、自分が信じたからこの世界ができた。


それを少しづつ、受け入れられるようになってきた。


だからこそ、不安な思い、恐る思い、腹がたつ思いが出てくるということは、

自分がひた隠しにしてきたものを表に表せるチャンスなのだ。


そう。それは「現れてきてくれた」ものなのだ。


愛しさ以外の何がそこにあるのか。


恐れも、怒りも、愛の思いで受け止める。


すると対象となる誰かを変えようとも思わない。

変える必要などないとわかる。


いや、変えたいと思う思い、その思いさえも受け取る。

そうしたい自分を正直に受け止めて、変えまくってもいい。

それも赦す。


すべては、今、そこに起こっている、そのままを受け取る。


それをうわばみのように飲み込んでいくと、

その下に溶けていくような癒しが待っている。









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